嗚咽

318 名前:大人の名無しさん 投稿日:02/10/01 22:55 ID:qSqyuoC0
美術館でバイトをしていた。その日の仕事は地元の公募展の受け付け作業。
いっしょに一人、審査員の先生も同席してくれる。
その時にいてくれたのは、やさしいおじいちゃん、と言う感じの彫刻の先生。

一緒に並んで座っている私が咳をしていると「手を出しなさい」と言う。
不思議そうに手を出すと、服のポケットから出した缶入りの南天のど飴の小さな缶を振って、
私の手のひらに飴を落として「たべなさい」と優しく笑った。

私は風邪気味でその日は何度も咳をし、そのたびに手を出しなさいと言われた。
「大事にしなさい、人間は簡単に死ぬからね」とぽつんと言われ、
「やだー、先生、そんなに簡単に死にませんよー」と笑っていったら
「そうだなぁ、そうだなぁ」と優しく笑った。

半年後、新聞の死亡記事でその先生を見つけた。
その数日後に美術館でバイトをした時その先生の話になった。
癌だった先生は、告知を受けており、私が飴を貰った頃はすでに自分の死期が近い事を知っていたという事だった。

その半年後、某美術展の地方巡回展があり、私は売店のバイトをする事になった。
開会日の前日、会場の売店の整理の合間に作品を見てきてもいいと責任者にいわれて会場を回った。

とても優しく笑っている女の子の彫刻に喪章がついていた。
審査員出品作。
その先生の最後の作品だった。
優しい笑顔がふいに浮かんで、トイレにかけこんで泣いた。

816 名前:大人の名無しさん 投稿日:03/01/21 03:45 ID:LtX4/zV3
中学の時、苛められていた。
学年のヤンキー軍団にターゲットロックオンされていた為、学年の半分以上が敵だった。
残りには無視されたり陰口を叩かれた。

そんな私にも友人が4人いた。
でも彼女達に飛び火するのが怖くて、奴らが近づいたときにはそっと離れたりしていた。

ある日、私はヤンキーの一人に手酷い苛めを受け、不覚にも泣いて逃げ出してしまった。
その後先生に連れ戻されたが、家に着くまで涙が止まらなかった。
自殺しようとマンションの階段から身を乗り出したりしようとしたときもあったが、残される家族や友人達のことを思うと死ねなかった。
私は生きた。

数年後、もう就職もしようかという年になって友人の一人と久しぶりに話し込んだ。
そしてその時、私が泣いたあの日、友人Kちゃんが私が帰った後ヤンキー軍団のいる教室へ直談判をしに行っていた事を知った。
別段ケンカが強いわけでも、格闘技を習ったりしているわけではない普通の女子中学生が
私の為に危険も顧みずに奴らの中に飛び込んでいったそうだ。

初めて知った事実。
家に帰って、机に座ったら涙が溢れて来た。
ありがとう、ありがとう!
中学時代、彼女達がいなかったら今私はここにいない。
改めて彼女達に感謝しながら、その日は声を殺して泣いた。

今はもうバラバラになってしまったけど、彼女達が何か助けを求めてきたらいつでも力になりたいと思う。
そして、何十年経ってでも友達でいてください。
おばあちゃんになってもお茶しよう。

967 :大人の名無しさん :03/02/13 11:18 ID:UoByDRy+
私が生まれてすぐ両親は離婚し、母の実家で祖父母、母と暮らしていた。
母は私を育てるため、毎日毎日遅くまで残業していて、朝しか顔を合わせない日もたくさんあった。
休日は母は疲れて遅くまで寝ていて、どこかへ連れて行ってもらった記憶もほとんどなかった。

父兄同伴の遠足や運動会も、
友達みんながお母さんと嬉しそうに手をつないでいるのを見てやりきれない気持ちになった。

私は手のかからない子供だったと思う。
自分の感情を抑えて「会社休んで参観日に来て。」なんて無茶を言ったことなんかなかった。
一人遊びも上手だった。
すべてに遠慮して幼い頃から敬語を使う子供だった。

968 :大人の名無しさん :03/02/13 11:19 ID:UoByDRy+
小学校3年くらいのことだった。
遠足に行った後、作文を書くように言われた。
「五感」をテーマに書けと言われたんだと思う。
先生は、視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚を説明してくれた。
私はその中で触覚というものをテーマに選んだ。

遠足で山道を歩き学校までの道、皆2列になって手をつないで歩くわけだが、私は列の一番後ろを歩いていた。
生徒の数が奇数だったため、私は一人で歩いていたのだがその時、
先生が来て、私と手をつないで歩いてくれた。

いつも先生が手をつなぐのはもっと手のかかる子ばかりで私はいつも羨ましいと思っていたのだと思う。
なんだかすごくドキドキして嬉しくて、涙で前がよく見えないまま学校に着いた。

作文には遠足の帰り道の先生の手が暖かかった、と書いたと思う。
私の作文を読みながら先生が
「手くらい、いつでもつないであげるのに。」
と震える声で言って、私の手をもう一度つないでくれた。

友達たちは私の作文に何が書いてあったか気になるみたいで私に聞いてきたが、
振り切ってトイレに走って行ってまた泣いてしまった。

678 :大人の名無しさん :03/09/07 20:40 ID:6jPyEKof
当事15歳の弟が13階建てのビルから飛び降り他界致しました。
両親の離婚で、就職を余儀なくされ・・きっと愚痴を言いたかった状況の中・・文句もいわず・・

そんな私は今年で33になり・・あれから18年が経とうとしています。

結婚後現在、4歳を迎える直前の娘に恵まれている中・・
昨日夢を見ました。。。

「姉ちゃんが買ってくれたクレアラシル、ありがとうな・・
 いっつも思ってくれてありがとう。。。
 ねえちゃん、身体壊れてるよ・・
 病院に行ってきな・・・」

最近弟の夢も少なくなっていたこの所で・・忠実に病院に行ってみました。
結果、大腸がん。。

先生いわく、後2週間送れれていても微妙だったとの事。
明日、手術ですが、自覚症状が無かった為・・
本当に不思議でもあり、弟に感謝しています。

弟が死んでしまった日・・
「私のお腹に戻ってきなよ!・・」
って毎日呪文のように唱えていましたが今日の出来事を通し・・・

いつも私を、見ていてくれている貴方に・・・

心からありがとう。

872 :大人の名無しさん :04/08/26 22:29 ID:7gbIl0kj
娘千春が逝ってから、もうすぐ1年。
千の春を迎えられる位長生きして欲しいという願いを込めて名をつけたのに、
あの子はたった7つの春しか迎えられなかった。
先天性の免疫不全症候群で、生まれてから一度も病室の外に出ることはなかった。

「いつになったらお外へ出れるの?」

悲しそうに呟くあの子の姿が今も目に焼き付いている。
結局、生あるうちにその願いは叶えられないまま終わった。

小さな身体で懸命に、最後まで、生きることを諦めなかった千春。
闘って、闘って、闘い抜いた千春。
とうとう力を使い果たして、眠るように逝った千春。

「よく頑張ったね、えらいぞ、1等賞だ。だからね、もういいからね、おやすみ」

主治医の先生が看取った時に、優しく千春の頭を撫でながらそう言って泣いていた。
私は主人と一緒に泣きながら、そんな先生に何度も何度も頭を下げた。

小さかった千春をもっと小さな一握りの灰と骨にして、海と山に撒きました。
外の世界に焦がれ続けていた千春を、また狭くて暗い墓の下に閉じ込めたくなかったので。

千春、千春、今あなたはどこにいるの?
空? 海? 山? 幸せでいる?
今はまだ、あなたのことを思い出すと涙があふれて止まらないよ。
おかあさんの娘に生まれてくれてありがとうね。
またいつか会おうね。

565 :大人の名無しさん :03/08/04 18:59 ID:rcoZUqMF
ようやく気持ちも落ち着いてきたからちょっと書かせてもらいます。

中学生の時、何かにつけてよくツルんでいたダチが2ヶ月前に事故で亡くなった。
そいつは何をするにも熱くなりがちで、テストや体育の授業なんかは
しきりに勝負を挑んでくるような奴だった。
俺とそいつは勉強もスポーツも同じくらいの実力だったから、
俺も競うのはすごく楽しかった。
今思えば、学生生活が退屈なものにならなかったのはコイツのおかげだったとも思える。
ある日、同じクラスの奴がバイクで事故って亡くなった。
葬式の日にそのダチはあまり交友もなかったそいつのことを思ってボロボロ泣いていた。
当時男が泣くことを恥ずかしいことだと感じていた俺も、
本気で泣いてるこいつを見た時に「いい奴だな」と思ったのを覚えてる。
今も忘れないその帰り道のこと、ダチが「葬式って悲しいな」って言った。
「そりゃそうや。人が死んでんから」って俺が答えると、
「お前、俺が死んでも泣かんでええからな。むしろ笑え。
 俺が生きてた頃にやったバカなこと思い出してみんなで笑ってくれや」って言った。
「アホか。どこに葬式で笑うヤツがおんねん」って俺が言うと、
赤い目したダチが
「悲しい葬式なんかおもろないやろ。それに俺、泣かれても嬉しないもん。
 せっかくみんな集まるんやからバカ騒ぎしたらええ。
 それで1人でええから、俺みたいなヤツでも死んだら寂しくなるなって
 思ってくれるヤツがいたら満足や」
って、笑って言った。
俺は「アホや!こいつアホや!」ってちょっとキザっぽく言うダチを笑った。

おい、お前の葬式、俺泣かんかったぞ。
写真の前で手合わせてからニコニコ顔で出てきたった。
だって、お前がそう望んでたんやからな。
勝手に死んで、アホか。

760 :大人の名無しさん :03/09/20 00:53 ID:ADCpy8SO
3日前妹が死んだ。22歳だった。
交通事故だったけど、妹は悪くなかった。ただ相手の不注意と、不運が重なった。
それだけのことであっけなく死んだ。即死だった。
連絡を受けて飛行機に飛び乗り、病院に着くまでは信じられなかった。
でも妹は死んでいた。
家族と親戚と友達と、来年の春に結婚するはずだった彼氏が病室にいた。
両親は妹に取りすがって泣き崩れ、彼氏は床に崩れ落ちていた。
事故の相手は若い主婦で、旦那と一緒に床に頭をこすり付けて土下座して、号泣しながら謝ってきた。
彼氏が殴りかかろうとしたのを、俺が止めた。
母親は顔も上げられず、父親が相手をにらみつけて震える声で
「金なんていらない。娘をかえしてくれ」
と言った。

なあ、ひかり。
今からでもいい、戻ってきてやれよ。
もう一度、父さんと母さんの娘になってやれ。
どれだけお前を可愛がっていたか、知ってるだろ?
それにもう一度、彼氏の恋人になってやれ。
あんなにお前を愛してくれる男なんて他にはいないぞ。
それからもう一度、
俺の妹になってくれないか?
俺の妹は、生涯お前一人だ。
ひかり、早すぎたんだよ。帰ってきてくれ。どうすればいいのかわからない。

230 :大人の名無しさん :04/06/24 13:55 ID:mjzYN+dK
父が突然亡くなった。
父の行く先行く先をうちの猫のみぃはついていく猫だった。
「いつも俺の後をついてくるんだぞ。俺の護衛なんだ。」と少し自慢げに言う父のその言葉に、特に信じるも信じないも、ふぅ〜んですましていた。
父が、亡くなり仏様になり自宅に帰ってきた。手を組み布団に寝ている父。
すると、人見知りのみぃが私達の前を通り、父の布団の中に入った。
もう冷たい父の横に寄り添って寝ていた。みぃ冷たいでしょう・・・。その光景を見てものすごく涙がでた。猫にも分かるのかな。お別れだってこと。

父が棺おけに入った夜。
家族だけの最後の夜。
棺おけの上にみぃは乗り、一生懸命父の顔の見える扉を開けようとしていた。
砂を掘るように一生懸命あけようとしていた。
母と私はそれをとめなかった。本当に一晩中みぃは必死だったのだ。
私達は泣いた。猫にも最後と分かるのだ。まだ私達は信じられなかった。

231 :230(続き) :04/06/24 13:56 ID:mjzYN+dK
父がお骨になった日。
もう一生父の顔を見れなくなったあの日。
みぃはいなくなった。一緒に行ったのだろう。
母も私のみぃを探さなかった。
父も寂しいのだろう。みぃはついていったのだろう。

「いつも俺の後をついてくるんだぞ。俺の護衛なんだ。」
そういっていた父の言葉を思いだした。
本当にそうだった。
本当は私達もついていきたいくらいだった。
その変わりみぃがついていってくれた。

父の49日、猫が迷い込んできた。
みぃは女の子だったけど、男の子の猫だった。
ずっとうちの前で泣いていた。その猫をどうしてもほっておけなかった。
今もうちにいる。

そういう繋がり。大切にしていきたい。
いつまでも、その姿なくとも、何か別の形でそばにいてくれると信じている。

707 :大人の名無しさん :04/08/05 22:59 ID:o0CauCfR
人間なんて贅沢なんだよ。他人が羨ましいんだよ。
いきなり死んでしまわれるともっと時間が欲しかったと思うんだよ。
一人が嫌でやっと見つけたかけがえの無い大切な人だった。
あの夜酔って帰ってきたあなたは
「じゃあ、俺、帰るから。」と言いました。そして、HELP を悲しそうに唄って
お布団に入りました。それが最後にかわした言葉でした。
酔っ払って何を言ってるのか私は解らなかった。
明日の仕事もあるのだから早く休んで欲しいと思っていた。

708 :大人の名無しさん :04/08/05 23:00 ID:o0CauCfR
心臓を鷲づかみにされ続けた日々、泣きすぎて息が出来なくて、
トイレに行ったら足元が真っ黒で、なんでおしっこが黒いんだか
判らなくても、病院に行けなくて、空耳が聞こえたり、部屋に裂け目が
ある様に感じたり、眠れなくて、もう異常な日々が続いたんだよ。
でもね、その後ひどい事ばかりは続かなかったの。それが救いだった。
七日目に電報がたくさん来た夢を見た。みんな夫への侘びの文面だった。
憎もうとした夫の会社も憎みきれなくなった。
三十五日目には夢で夫がお別れを言いに来てくれました。泣いていました。
いろんな事を喋ってくれました。まるで転勤先が遠いかのように、
「・・・おれ、○○に行く事になった。・・・」夢では暢気な私が、夫に手を
伸ばして繋ごうとしたらあなたは泣いて首を横に振っていた。

今の生活が嫌になって、「もう、こんな生活は嫌だ。全て捨ててしまいたい。」
と思った矢先に、夢で夫に新居に連れて行かれ、部屋の掃除をする様に言われました。
何度も夢で逢いましたね。
「今日はゆっくり出来るんでしょう?」と聞くと、「これを聞いていろ。」と、
笑って携帯電話を私に渡しましたね。受話器からは何かの番組が流れていました。

709 :大人の名無しさん :04/08/05 23:00 ID:o0CauCfR
あれからいろんな事があってもう七回忌も無事に終りました。
悲しかった頃のフラッシュバックは薄らぎましたが、今でも救急車の
サイレンを聞くのはたまらないし、人目を構わず涙が出ます。
腑抜けの私に命を吹き込んでくれたのはあなたのご両親でした。
ご両親や妹さんに優しくされる度にやっぱり子供が欲しかったって思います。
今更の思いですが。
あなたがどんな気持ちだったか判っていたはずなのに、私が大甘だった。
この罪は拭えない。
最大の危機に気付かなかった自分が嫌で思い切り働いたりもしました。
いろんな人に出会って、助けられて、これからも誰かの為に、必要とされる
存在でありたい。
悪夢の日々は過ぎ去りましたがまだどこかでこれが日常と思いたくない自分。
LET IT BE を口ずさみながら、静かに生きて行こうと思います。

片付けをしていて見つけたゴルフの手袋と、コートのポケットにあった手袋は
今でもあなたがさっきまで居た様にふくらんでいます。パソコンの楽しさを教えて
くれてありがとう。隣にはwin95がまだ置いてあります。
あんなに幸せだった頃を思い出すのが辛くて、あの後の記憶とともに封印して
しまった私を許して下さい。そうしないともう堪らなかったから。

思いの何分の一かを書きなぐってしまいましたが、体調が悪くなっても働き
続けている人へ、少し自分を大切にして下さいとお伝えする事が、今の私に
出来る事です。

269 :大人の名無しさん :2005/07/16(土) 03:24:57 ID:3FzNPfO5
妻と、そして産まれたばかりの子供を失った。
もともと虚弱体質だった妻は、子供が産める身体ではなかったのだと思う。私はそれを理解してそれでも結婚したつもりだった。
ある日妻が妊娠を告げた。私は妻の身体を守りたかった。しかし妻は、これが最初で最後の機会だから私の子供を産ませて欲しいといった。素直に、嬉しかった。
大変な妊娠期間だった。それでもいろんな人の助けを借りて分娩までかぎつけた。
もちろん付き添った。しかし、途中で急に医師から退室するように言われた。

270 :大人の名無しさん :2005/07/16(土) 03:29:28 ID:3FzNPfO5
その後医師から聞かされたのは、子供の命を救えなかったこと。
そして、妻と最後の会話を交わして欲しいということだった。
確かに、覚悟していた結果だったのかも知れない。
なんとか泣かずに妻の横に立てた。
「やっぱり私は母親にはなれないみたい。でも、マキのこと、私の生まれ変わりだと思って、大切にして欲しい。
勝手に名前決めてごめんね。あなたの文字を一文字もらいました」
私は、どうしても妻に、マキがこの世に産まれてこれなかったことを告げられなかった。
勘のいい妻だった。いつも私の嘘を見破っていた。
「わかった。俺がお前の分もマキを幸せにしたる」
私が言えたのはたったこれだけだった。

妻は、にこっと微笑んだ。
そして、今までありがとう、マキをお願い、そんなことを言って眠った。

妻は、私の嘘にきっと気づいたのだろうな、と思う。最期くらい気づかなければいいのにと、幸せなまま、逝ってくれたらよかったのにと。
マキ…妻はいったいどんな漢字を当てるつもりだったのだろう。聞きたかった。

273 :大人の名無しさん :2005/07/17(日) 00:47:42 ID:kXoKoR42
私の弟が先日なくなりました。父親は私が高校生で彼が小学生の時に離婚し、
母はほかの男に夢中だったので、あまり家族として成り立ってないような家庭の中で、
私は弟には甘えを許さず、容赦なく正しいことを突きつける姉だったので、
弟にとってはうざったくてしょうがなかったと思います。

ただ、私が精神的にきつくて食べるのをやめてしまったとき、「どうして姉ちゃんは
自分だけにそんなに甘えをゆるすんよ!!!」と怒鳴られたりして、
よく言えばけんかするほど仲がいい、私は弟がとにかく大切でした。

 2年ほど前に私は病気になり、それを誰にも知らせずに家をでて、そのまま
ひとりで遠方にでたため、家には弟と母二人になり、弟はいつも一人でした。
ただ、弟が自分は捨てられたと思ってしまうのはもっといやだったと思ったため、
弟にだけは病気だといい、自分が病気だから、都会で働いて自分で手術台を稼いで治療する
ということにしていました。

腎臓が片方だめになってしまい、とることになるかもしれないが、私には手術をするお金もなかったので、薬で何とか持たせている状態でしたが
幸いなんとか腎臓がうごきはじめたため、ほっとしていたところに、弟が急性の尿毒症で、
もう持たないという連絡を祖母からうけました。すぐに実家に帰ると、弟は一人で入院していました。
弟のそばで、日記をつけながらついていると、弟が突然、いいました。

274 :大人の名無しさん :2005/07/17(日) 00:48:55 ID:kXoKoR42
「俺ねえ、弟ほしかったな。」

「私も。自分がいちばんうえやから、兄ちゃん姉ちゃんは無理やろ。
妹は自分と比べられたりするんがいややしへにょへにょ神経の細いお母さんみたいなのが生まれてもこまるけん、
どうしても弟がいるんやったんよね。どうだ、うらやましいだろう」

「俺、姉ちゃんの弟じゃなければ良かった。」

言われた瞬間は、凄くショックでした。それで言葉が続かなくて
「ごめんね、頼りなくてさ。ほんまごめん」
とだけ涙声でいうと、

「俺がねえ、こんなぐれたりしてなくて、もっと強くて、元気に姉ちゃんの病気も支えられるくらい
強かったら、おもいっきり姉ちゃんの弟でよかったって思うのになあ。
小さいころ、殴られてもお湯かけられても笑い返して俺にかぶさってた姉ちゃんがトイレで吐いてたのに、
俺こわくてなんも出来なかったょ。

大きくなったら、なんかしてやろうとおもったけど、俺ぐれたから頭も良くないし、
おこりとばす姉ちゃん無視したし、姉ちゃんの作る飯も残したし、姉ちゃんが病気なのに送ってくれてる金、
こんなこと(入院)につかうはずじゃなかったし、そもそも病気なのはねえちゃんなのにな。
なんだかんだいって、ねえちゃんは強く生きてるよ。」というので、

「ばかやろう!私は自分が病気になっちゃって、あんたを残して一人ぼっちにさせちゃって、しかも甲斐性もないし、
いつ死ぬかわからないのが私のほうだったとしても、ていうかリアルにそうなんだけど
あんたの姉で本当に良かったと思ってんだよ!!あんたがいてくれたことが、
生まれてきてくれたことが一番本当に一番うれしかったんだよ!!いてくれてありがとう。

あんたにとっては役に立てなかったかもしれないけど、お母さんに一番感謝してるのは、
あんたを生んでくれたことだ!!!!」

と、病室で怒られるくらい怒鳴ってしまいました。

275 :大人の名無しさん :2005/07/17(日) 00:49:32 ID:kXoKoR42
「だけど、俺いなくなるから、弟いなくなるから、弟ずっと欲しかったのに、俺じゃなかったらよかったよ。
俺が姉ちゃんの弟じゃなかったら、そんな想いさせることなかったのに、もっと生きたいのに」

「・・、あんたずっと私のことばっかり言うんね。あんたの望みやあんたの思惑がなんにもない。
優しくて悲しいねえ。私にくらい、自分の事をまもっていいのに、全部がまんして、
どうせ我慢するんなら、我慢ついでに私の弟であることも我慢してくれないかな。
私は、本当に弟のあんたを愛せて幸せよ。あんたが私に幸せと気力を与え続けてきたの。
私は幸せよ。あんたの姉で。」

弟が泣いているのを見たのは、久しぶりだった。
「俺、もうすぐ死ぬんだょ。死んじゃうんだょ。まだ何にもしてないのに、何にも出来なくて、
もうすぐ息もできなくなるんだよ。生きていられなくなる。いなくなる。おれ、生きられなくなるのが
悲しいんだ」 そういって、声を上げて泣いた。少しして、落ち着いたのか、

「もう、大丈夫。俺、姉ちゃんの弟でよかったよ。」そういって笑った。

それから、次の日、容態が急変して、チューブだらけの弟を医者が懸命に心臓マッサージして、
けど辞めるとすぐ動かなくなって、それをくりかえすうち、弟の閉じて動かない目から、
涙が一筋こぼれて、

「もう、結構です。有り難う御座いました。」とわたしがいっていた。

276 :大人の名無しさん :2005/07/17(日) 00:49:59 ID:kXoKoR42
静かになって、弟が穏やかな顔をして、少しだけ目を開けて息を吐いて目を閉じた。

死に顔が穏やかで、あんな母親でもその時は泣き崩れていた。
母を支えるのが大変だったので、私はその時は泣かなかった。

死んだあと、病室を整理していると、ゴミ箱ではなく、ゴミ袋に大量の紙くずが入っていた。
何も思わなかったが、燃えないごみと一緒になっていたため、紙を取って、何の気なしに広げてみると、

「姉ちゃんへ」と書いてすぐ上からげしげし消してあった。
夢中でほかの紙くずもひろげていくと、何十枚も、かろうじて動く左手で、震えて汚くて大きくて読めないような字で、
左上に「姉ちゃんへ」とだけかいて、けしてあるだけの手紙が出てきて、
たまに、「ごめ」(多分ごめんとかこうとしていた)とか、「自分が」とか、「ありがと」とか書いて消されていたが、
ほとんど「姉ちゃんへ」とだけしか書けずに捨てられたもので、
ごみと一緒に取り出したかかえきらないくらいの紙くずを思いっきりすがるように抱きしめて、
生まれてきてから、笑い泣きながら過ごした弟を思って、叫ぶように泣いていた。
ごみだとわかっていても、まだその弟が書いた手紙にならなかった思いを捨てられずにいます。

333 名前:大人の名無しさん 投稿日:02/10/04 21:33 ID:j68S1/Ft
今年の7月に父が他界しました。
6月に母の7回忌をすませたばかりでした。

うちは離婚家庭で、私は母と年の離れた兄に育てられました。
私は母が40歳のときの子供だったので、かなりわがままを言っても許されていたと思います。
でも、身も心も幼い私は、自分がわがままを言っているなんて気づいたこともありませんでした。

高校生になると、反抗期がひどくなりました。
母のことはキライじゃないけど、話すとイライラしてダメでした。

私が高校を出ると、母は入退院を繰り返すようになり、6年前に他界しました。
父とはほとんど連絡をとっていなかったけど、
2年前に入院したとき2回だけお見舞いに行きました。
体が弱いのにアル中でした。

その父は、祖母の家で、他界した2週間後に発見されました。

334 名前:大人の名無しさん 投稿日:02/10/04 21:42 ID:j68S1/Ft
祖母は老人ホームに入っていたので、その家は父が1人で住んでいたのです。
夏の時期だったこともあり、父の姿は見る影もありませんでした。
母のときも、父のときも、薄々、ある程度の覚悟はできていました。
葬儀のときは涙が出ませんでした。
悲しくないわけじゃなくて、照れくさかったんです。
もともと、家族愛が薄いと思われても仕方がないタイプでした。
ホームドラマのようなやりとりや、家族と一緒にでかけることもあまりない家。
家族に対して真剣な話をするのが、恥ずかしかった。
だから、葬儀でも泣けなかったんです。

335 名前:大人の名無しさん 投稿日:02/10/04 21:44 ID:j68S1/Ft
でも、父の残した日記帳に、
2年前、私がお見舞いに行った日。数年ぶりに、老いた父を見た日。
「今日は娘がきてくれた。心よりうれしかった」
と書いてありました。

結局、家が遠いこともあり、お見舞いに行ったのはその後1回だけ。
・・・いいわけにしかなりませんが。

2人とも、精神的にも幼い私を心配し、ろくに見舞いにも来ないけど、
やはり愛情をもってくれていたと実感しました。
今さら云っても仕方ないけど、はっきり本人たちに言葉で伝えたことはないけど、

たくさんの愛情をありがとう。

天国では仲良くしてください。

長文、支離滅裂、すみません。

誰にも云えないけど、誰かにきいてほしくてつい書いちゃいました。

905 名前:大人の名無しさん 投稿日:03/02/03 22:49 ID:el+uxyiA
半端ではない田舎と貧乏がイヤでイヤで、高校卒業してすぐ家を出た。
最初の頃は盆暮れには帰省してたけど、めんどくさいのと家族内のいざこざに目を向けたくないのがあって
帰る頻度はどんどん減っていき、一番最近帰ったのは三年前の正月。
それきり全く親とは顔を合わせていない。
今回も正月休みはほとんどひとりで過ごした。でも実家に帰るよりはいいと思った。
紅白歌合戦を見てる時、そういえば父も今ひとりでこれ見てるのかな、と
(母はパートに出ておりその時間には帰ってない筈なので)ふと思った。
父は紅白をいつもとても楽しみにしており、大晦日の朝、いそいそとラテ欄をチェックして
自分が知らない若い歌手やバンドの名前についていちいち「何て読む?」「何人組だ?」と聞いてくる。
番組が始まってからも「この人は何でこんな変な衣装着てるんだ?」など
私に聞いても仕方ないことまでいちいち問いかけてきた。
そのくせ楽しみにしてた筈の大御所演歌歌手が出る頃にはお酒に酔って寝てしまってたりする。
毎年半ばうんざりしながら答えていたが、そういう父がすこし可愛くもあった。
ここ数年はそんなことすら忘れていた。

906 名前:905(つづき) 投稿日:03/02/03 22:49 ID:el+uxyiA
あ〜、お父さんキックザカンクルーなんて絶対読めないだろうなあ。
ガクトを見て「こいつは男か女か?」って思ってるだろうな。
「やっぱり一緒に見たかったな」と思ったとき、
お父さんのいちばん好きな北島三郎が出てきた。今頃はもう寝てるかな。
♪帰ろかな 帰るのよそうかな…
サブちゃんのその歌を聴きながら私は泣いていた。
子供の頃はとても大きいと思ってたのに、見るたびに小さくまるくなっていく父の背を思って泣いた。
ひとりでこたつに入りコップ酒を飲んでるであろう父を想像して泣いた。
ああ私は親不孝な娘だな、と遅まきながら初めて深く深く反省した。

母の体調もよくないのもあって、もうすぐ仕事を辞めて実家に帰ることにしました。
あちらではネットもできない可能性が高いので、最後の思い出に書きました。
このスレ大好きでした。みなさんどうかお元気で。またここでお会いできるといいですね。

886 名前:大人の名無しさん 投稿日:03/01/31 15:51 ID:5MfqHi0N
今年の正月に久しぶりに幼なじみの女友達が帰省し、一緒に飲んだときに聞いた話。
彼女の家は大きな果樹園で普通に育ったのですが、ただ一つ父親が吃音(どもり)気味でした。
しかしそんなにひどいわけじゃなく
「よ、よ、よくきたな、あ、あ、あがれ、あがれ」
文章にしてもうまく伝わらないが、それを早口で言う感じ。
俺なんかは近所だったんで子供のころから可愛がってもらっていて全く気にしたことなんか無かったし、
表現はおかしいかもしれないが口癖ぐらいに思ってました。
それでも彼女は自分の父親のそんな話し方をかなり気にしていたそうです。
同性に対しては特にそうで、友達は普通にいても父親の話を聞かれたくなく、
家につれてくることは全くありませんでした。
そういうのは何となく伝わるもので彼女が中学、高校と成長するごとに溝も大きくなっていきました。
お父さんは本当はものすごくおもしろい人で俺がリンゴを買いに行ったときなど
「ひゃ、ひゃ、ひゃく、100円でいいぞ。い、い、今のは、に、に、200円て意味じゃないぞ」
と自分がどもり気味なのを逆手に取って笑わせてくれるような人でした。(伝わるかな)
彼女は高校を卒業して都会に就職が決まり家を出て一人暮らしを始めることになりました。
そのころ父親とは話をすることはほとんどなくなり、お父さんもそのころは元気がないようでした。
旅立ちの日、駅のホームには何人かの友達も見送りにきていたせいかお父さんはかくれるようにしてたそうです。
しかし、いよいよ出発のブザーが鳴り扉がしまった時、後ろからお父さんが友達をかきわけて一枚の紙を見せました。
それには墨で「ガ、ガ、ガ、ガンバレ」と書いてあったそうです。
俺はそれを聞いた瞬間「うっそー?」と言いながら爆笑しました。
でもそのうち何でか泣けてきてしょうがなかった。
素直に「ガンバレ」って書けばいいものを、照れ隠しに文章までどもって見せた気持ち。
でもそれでまた娘を怒らせると思い、なかなか渡せなかった気持ち。
その話を聞いて二人で泣き笑いしてました。

ちなみに彼女のお父さんは今も元気です。

801 名前:大人の名無しさん 投稿日:03/01/18 18:27 ID:X1+rwsdw
年末の帰省時に姪(弟の5歳児)を預る予定だった。

前年帰省の際、土産を忘れた俺は、土産代わりに子守する事にしたが、これが大好評。
特に義妹(28)からは「義兄さんのおかげで久々に旦那とデート出来た!」と喜ばれた。
その時は姪の希望でとっとこハム太郎の映画に連れて行った。4歳児が映画館でじっとしてられるか不安
だったけど無事終了(泣くとやばいんで同時上映のゴジラは見なかった)。
パンフ 買ってゲーセンでハム太郎のぬいぐるみ捕って。
劇中歌のミニはむずの曲の着メロ落して車の中で鳴らし続けたり
(普段は仕事ユースのエッジなんでマナーにしてて鳴らさないんだが)。
姪は初めての映画館が相当嬉しかったらしく、正月休み明けまで「楽しかった」を連呼していた。
姪の楽しげな様子を見ていて、家族皆が幸せだった。

去年の夏の終り頃、姪から電話があった。
「今年もハム太郎の映画があるんで連れてってください。」
義妹に「連れて行って欲しかったら自分でちゃんと頼みなさい」といわれ電話したらしい。
連れて行く約束をして電話を切り、ググってみると、
確かに「劇場版とっとこハム太郎2 12月公開」のページがあった。

802 名前:801 投稿日:03/01/18 18:29 ID:X1+rwsdw
12月になって再度姪から電話があった。
「おにいちゃんいつ帰って来るんですか?」
28日に帰るから29日に映画に行こうと約束して、そのままローソンに行き、映画の前売券を買った。
(その電話で、弟夫婦もデートの日を決めたかったらしく、姪はそのダシに使われたらしい)

28日の東名高速下りは事故も重なり大渋滞。
蒲郡から小牧まで何時間かかるかわからない位。
実家に相当遅くなると伝えるために電話。
誰も出ない。
その時は正月の買い出しにでも出てるだろうと気にして無かった。
その後も何度も電話したけど、結局電話は繋がる事無く、普段の倍の時間かけて実家に着いた頃には、
日が暮れていた。
電気一つ灯いていない真っ暗な実家。
変わっていない合鍵場所から鍵を持ち出し中に入る。
両親と同居して(もちろん大変な事一杯有るだろうに)うまくやってくれてる義妹。
家の中は何時も奇麗に片付いていたのに、一目で何もかも放り出して外出したのが分かる荒れよう。
取り敢えず居間の茶碗類を片付け、ストーブをつけてテレビを見てぼーっとしてた
(多分めちゃイケでも見てたんだと思う)。

803 名前:801 投稿日:03/01/18 18:30 ID:X1+rwsdw
流石にこの時間まで帰らないのは尋常じゃねえな、と思った矢先、両親が帰宅。
目が合った親父が言った。
「姪が死んだ」
…ハァ?
と思った瞬間に、親父の背中でお袋が泣き出した。

親父に聞いて駆けつけた病院には弟夫婦がいた。
公園で補助輪無しの自転車の練習中に転倒して、その際にブランコの支柱に頭を強打したらしい事。
そのまま意識が戻らなかった事。
幼稚園が冬休みになってから一生懸命自転車の練習してた事。
それがどうやら俺に見せる為らしい事。
(一人でトイレ出来る、補助輪無し自転車に乗れる、出した物を自分で片付けられる、が姪には
「成長してお姉ちゃんになった自分」を表す事と思っていたらしい)
そんな事を聞きながら、姪と対面した。
あまりに突然過ぎて驚きが大きすぎたからか、涙は出なかった。

次の日弟夫婦が病院へ行っている間に、俺は親父に言われて一番近い紳士服店に礼服を買いに行った。
この十年で俺はすっかり太ってしまい、親父や弟の礼服は着れない体型になっていた。
年末だったが吊しの礼服を買って無理言ってその場で裾詰めを頼んだ。
待ち時間の間、店を出て辺りをぶらついた。
そのうちに、ここが何処だか唐突に気付いた。
急いで店に取って返し、車走らせた。

804 名前:801 投稿日:03/01/18 18:30 ID:X1+rwsdw
五分ほど走った場所に、去年姪と来た映画館が有った。
受け付け嬢に頼み、映画のパンフだけ売ってもらい、紳士服店に引き返した。

葬儀までの間の記憶ははっきりしない。
周りの肉親がばたばたしてるのに、俺にはする事が無かった事だけ覚えている。
葬儀業者の手配でセレモニーホールでの通夜が始まる前、義妹と少しだけ話をした。
「姪がいつもいつも『おにいちゃんに買ってもらったんだよ!』って見てたハム太郎の映画のパンフ、棺
に入れてやります」
見ると義妹の手にはぼろぼろになった、それこそ擦り切れるくらい読んだだろう映画のパンフ。
これを見た瞬間に、涙が止まらなくなった。
生まれて初めて、視界が涙で滲んで見えなくなっていく体験をした(今までは泣き出しは目を閉じてたん
だろうか?)。
買ったばかりの新しい映画のパンフと前売券を、一緒に入れてもらう為義妹に渡しながら、泣き続けた。

自分の子でも無いのに、今でも、ただただ喪失感しかない。
時間の経過で薄まるのかどうかも、分からない。
PHSに落したミニはむずの着メロは、聞けずにいるけども消せずにもいる。

いたる所で目に付くハム太郎見つける度に、姪の喜んでいた顔を思い出す。
で、その度にもう思い出す事しか出来ん事を思い知り泣いてしまう。

このスレの中に『前スレにハム太郎や ピカチュー』ってカキコが有ったけど、読んだら泣きそうな気が
したんで読まずに書き込んだ。
こんな長文載せて、重複してたらすまん。
しかもsageてなかった。

973 :801 :03/02/14 18:39 ID:2QF1g/fF
2月10日に有給休暇を取って、帰省した。
姪の四十九日に出る為に。

新幹線は、あっけないほどすんなりと着いてしまった。
家に入り、新しく買ったという仏壇の前へ。
仏壇の黒と、骨壷にかかった布の白さのコントラストで息が詰まる。
供えられた色紙の工作物。
聞かずとも姪の友達からだと分かる。
形は整っていないけど、姪のために一生懸命作ってくれたんだな、と感じる。
弟夫婦と少し話す。

姪の仏前にハム太郎グッズを供えようか、と数日前まで考えていて、
実際買ったけど、これを毎日見て生活するのは辛い、と思い置いてきた。
代わりに、知人のツテを頼んで、フラワーアレンジメントしてる方に、
ハム太郎に見えるようにしてもらった花の篭盛り(?)を持参した。
これを事故現場に供えたい、と伝え
「弟と義妹も、一緒に行かないか?」と誘った。

義妹は、事故以来あの公園に近づけない。
仕方が無い事だけど、四十九日をきっかけに立ち直らせたい。
そう弟は考えていたから、事前に相談していた。
姪の事は、忘れられるはずも無い。
でも、今は、憔悴し切った義妹を何とかしないと、というのが俺と弟の考えだった。

974 :801 :03/02/14 18:43 ID:2QF1g/fF
結局、弟夫婦と両親と俺の5人で公園へ行った。

家へ戻り、親父の実家へ、姪の遺骨を納める墓の相談に祖母を訪ねる。
祖母が10年も前に俺用に買ってくれた寺の墓地が有り、それを使わせて欲しいと頼む。
(田舎は面倒な事柄が多い)
祖母は快諾してくれ、寺との段取りもしてくれた。
月内には納骨できると聞いて、ほっとする。

その夜は、弟夫婦としこたま飲んだ。

姪よ、
お前は居なくなってしまったけど、
お前と過ごせた日々を、俺達は忘れないだろう。
今は痛みだけしか感じないけど、
時間が経てば楽しかった日々を思い出せる日が来るだろう。
そして、いつか
お前の弟か妹が出来たら、俺は同じ様に、映画に連れて行こうと思う。
霊とか来世とか信じないけど、
どうかそんな日が早く来る様に
お前の母さんを見守ってやってくれ。

863 名前:大人の名無しさん 投稿日:02/05/23 21:51 ID:Oy0RYzJE
20代の若造ですが・・・
今日、母が「○○(私の息子)をじいちゃん(母の父親)に
見せられればよかったと思うと涙が出そうになるよ」と言っていたので
ちょっともらい泣き。

じいちゃんは、私とちょうど60歳違いで、よく面倒を見てもらった。
色々なところに連れて行ってもらったり、遊んでもらったり。
私が3歳のころに駅に向かうじいちゃんを追いかけて迷子になったこともあった。

じいちゃんの口癖は「おまえがお嫁に行くまではじいちゃん生きてるからね」
「大きくなったら一緒に浅草にてんぷらを食べに行こうね」
私が中学に入るころには糖尿病が原因で入院していた。

14歳のときに「じいちゃん危ないって」と連絡を受けて
病院に駆けつけた。
車を降りて病室まで走っていくと
いとこが「じいちゃん死んじゃったよー!!」と
大泣きしながら叫んでいた。

葬式のときに弔辞を読んだじいちゃんの師匠が
「お葬式でこんなにお孫さんが泣くのは見たことがない」
と言うほどいとこ6人がずっと大泣きしていた。

おととしの私の結婚式では、教会でばあちゃんが
私を抱いたじいちゃんの写真を高々と掲げていた。
それを見てまた涙がこぼれそうになった。
と同時に、新しい苗字がじいちゃんちと一文字同じだったな、
なんて思い出した。

去年私に息子が生まれ、じいちゃんの名前から一文字もらった
名前をつけた。
人徳があって、返してもらえないって分かってるのに
困っていると援助しちゃうじいちゃんにあやかれればいいな、
なんて思いながら。

お祭りが大好きだったじいちゃんはよく酉の市で熊手を買っていた。
それを見てよく笑っている息子をみて、母が
「○○(私の息子)をじいちゃん(母の父親)に
見せられればよかったと思うと涙が出そうになるよ」

長文スマソ。

895 名前:大人の名無しさん 投稿日:02/06/19 16:38 ID:w8/Z1s1f
オレの親父は怖かった。
もちろん最近よくある理不尽な暴力ではないが、オレは何かをやらかすたびに鉄拳制裁を食らっていた。
小柄だががっしりした体型のオヤジの鉄拳は、いつもいつも痛かった。

不肖のバカ息子であるオレが身を固めたのは、30半ばになろうとした頃だった。
引退しすっかり好々爺になってしまった親父だったが、結婚式の挨拶は堂々としたもので、
まだまだ親父は健在だと安心したものだった。

それから1年ほどして、親父が入院することとなった。
小柄だが頑強だった親父にとっては、初めての大病と入院だった。
原因は不明だったが、腎臓機能の一部を失うだけで済み、手術なしの薬物治療で大丈夫とのことだった。
その時点で少し親父が縮んで見えた。
そしてさらに1年後。今度は腫瘍が見つかった。
幸い悪性ではなかったが、切除された患部を見て、ICUでチューブだらけの親父を見たとき、
さらに親父が縮んで見えた。
親父は生還と引き換えに、カミナリ親父の威厳を失った。すっかり弱気になってしまい、
何をしても疲れるからと中座をするし、60過ぎでもなお若々しかった風貌は、一挙に衰えてしまった。

先日の父の日に実家を訪れたとき、親父はオレの飼い猫のことばかりしきりに気にしていた。
まるで孫のことでも嬉々として話しているかのような、そんな口調だった。
「!!」
大病をしたことがなかった親父が、最初の病気以来どういう気持ちでいたのか、そのとき痛いほどよくわかった。
晩婚で心配をかけた挙句に、いつまでたっても子供も作らないで新婚気分でいるオレたち。
あの気の短かった親父は、孫が欲しいとかなにも言わずに、そんな浮かれた夫婦の姿を暖かく見守ってくれていた。
大病を重ね恐らく死すら覚悟したであろう親父は、どれほどに孫の顔を見たかったことだろうと。

そんな今の弱々しい親父の姿と、過去の親父の姿。
テーブルに置かれたありきたりの父の日のプレゼント。
相変わらず親不孝なオレ。
それらがない混ぜになってグルグルと心のなかで渦を巻き、
そのやるせなさ・悲しさがこみ上げて、嗚咽をもらしそうになった。

なぁ親父。来年の今ごろは孫を抱っこできるように努力するよ。
だから長生きしてくれ。

901 名前:大人の名無しさん 投稿日:02/06/24 12:15 ID:yBzd2QzO
20代ですが失礼します。

小さい頃は(私のためとはいえ)厳しい母が苦手で、
甘やかしてくれる父や同居していた祖父母の方が好きでした。
しかし大きくなるにつれ、浮気や借金を繰り返す父のこと、
それをすべて母がいたらないからだと責める祖父母のことを知るようになり、
また母の厳しさが私を思ってのことだとわかってきて、
本当の愛情を持っていたのは母だとようやく気づいた頃母は入院しました。
その半年ほど前から体調が悪かったのですが、
母の病気は特殊なもので病気の特定ができなかったのです。

入院して2ヶ月ほどで母は亡くなりました。
母は自分が死ぬような病気になったら、
ホスピス等で穏やかな死を迎えたいと常々私に言っていましたが、
入院した時点でほぼ手遅れでした。
私がそのことを知ったのはもう転院等もできないほど衰弱してからで、
入院していた病院はそういう治療はしてくれないところでした。
亡くなる前にたくさんの管に繋がれ、
無理矢理生かされていた母の姿を今も思い出します。

母の命日は大晦日ですが、
母が亡くなってから大晦日は母が亡くなってからの年数が増える日になり、
新年は私にとっておめでたいものでも何でもなくなりました。

今もちょっとしたことで母のことを思い出します。
自分が母子家庭で育ち苦労したため、
私たち子供の事を考えると離婚は今すぐできないから、
私たちが大きくなって独立してから離婚するわと言っていた事、
未だに自分が生まれたことを申し訳なく思います。
入院してすぐの頃、病院食がおいしくないと言う母に、
「今度うちでお母さんの好きなものを作ってくるよ」と言ったのに、
伸ばし伸ばしにしている間に亡くなってしまった。
約束守れなくてごめんなさい。

母が亡くなってすぐ父は再婚して家を出ました。
今も交流はありますが、
どうしても父のことを優しい目で見ることはできません。
その後、祖母も亡くなり、(祖父は母が亡くなる前に亡くなりました)
妹も結婚して家を出たので、
仏壇は一人暮らしの私の部屋にあります。
最近お水を供えることすら怠っていました。
明日からは忘れないようにするからね。
お母さんのことをいじめた
おじいちゃん、おばあちゃんと一緒のお墓に入らせてごめんね。
天国でもいじめられてるなら、
そこには私たち子供はまだ行っていないんだからどこへでも逃げてね。
母が空の上で自分のしたいようにしていられることを祈っています。

長文ごめんなさい。
でもここに書いて少しだけ自分の気持ちが整理できた気がします。

907 名前:元原発職員 投稿日:02/06/28 11:43 ID:zXOsdITy
最近地元の友達が自殺した
小、中、高と同級生で一緒にいじめられていた
俺は大学進学の時に地元から離れたのだが、そいつは高校卒業後、地元のスーパーに
就職していた。
高校卒業後もあの時の奴らにいじめられて?(いやがらせ?)いた様だ。
嫁さんも子供も居るのに、死を選んだあいつの気持ちを馬鹿どもに思い知らせて
やりたい。
他人の前で死ぬほど辛い事をさせられたり、誰も助けてくれない絶望感があることを
思い知らせてやりたい。
お通夜の時の、あいつの嫁さんと子供の顔が忘れられない。
裁判にはなる様だが、そんな事で済む事では済ませない
必ず俺が仇を討ってやる。絶対に仇を討ってやる。
相談に乗れなくて本当に済まなかった。

913 名前:大人の名無しさん 投稿日:02/06/28 18:06 ID:eAxZAZAw
私たち家族と同じ敷地に小さな家をたてて住んでいたお父さんの実妹は
家族に虐げられる私をゆいいつ愛してくれた人だった。
そんなば−ちゃんが私に残してくれたものは
くちゃくちゃのはがきと古い写真と郵便貯金。
「それはあなたの本当のお母さんの写真と送ってきたはがき。
 だいぶ昔のものだからもうそこにはいないかもしれないけど、
 もし本当のお母さんに会いたいのなら一度そこへ行ってみなさい。
 何か分かるかもしれないから。これはその時の足しにしなさい。」
その後ば−ちゃんは持病の心疾患が悪化、一年の闘病生活の後
最後の最後まで私の心配をしながら逝った。
ば−ちゃん、あの後わたし家を出て住み込みで働きながら
夜間高校に行きなんとか卒業しました。いまはある会社の寮で
一人暮らしです。生活が落ち着いた頃ハガキの住所に行ったよ。
あの住所はお母さんの実家だったようです。
代替わりしていてお母さんの弟に当たる人が実家を継いでいて
最初は事情の説明が大変でしたが、ば−ちゃんからもらった手紙と
写真を見せたらどうにか納得してくれて(私のことも一応知ってってた)
お母さんのその後を話してくれましたよ。
再婚して子供も生まれたけど失敗して子供を引き取ってしばらく実家に帰ってきていたがある時「働き口がみつかった。」っていって子供を連れて
そこを出て以来行方が分からないんだって。残念だったね。
でもねあたし一人じゃないんだよ。この世界のどっかに血のつながった
お母さんと妹がいるんだよ。生きていればいつかあえるかもしれない。
だから今日も生きていきます。おばあちゃんがくれた思い出と希望を持って。

773 名前:大人の名無しさん 投稿日:02/05/14 12:32 ID:kpgxvcVa
息子の学校へ忘れ物を届けに行ったとき、
学校は中休みで、子供達は校庭で遊んでいた。

正面玄関を抜けた所にある花壇で、軽い障害のある子が、
上級生に囲まれて泣いていた。その中のリーダー格の一人が
「やれよ、時間がねえんだよ。やんなきゃ殺すぞ。」と凄んでいた。
頭にヘッドギアをつけた、おそらくは肢体不自由の他に知的障害もあるであろう、
特殊学級の男の子が、しくしく泣いているその姿に勝ち誇るかのように、
そう言い放っていたのは、俺の息子だった。

俺は背後から息子の髪を掴んで地面に叩きつけた。
まさかここにいるわけのない父親の顔を見て、信じられない表情の息子の
胸ぐらを掴んで立たせて、顔面を殴った。
生まれて初めて親父に殴られた恐怖に、顔をこわばらせる息子に、
「時間がねえんなら、てめえがやれや。」と俺は言った。

俺は息子をてめえなんて呼んだことはないし、ましてや殴ったこともなかった。
小さいときから、情操教育に気を使い、人に優しくあれと教えてきた。
小さい子、弱い者を守ることの美徳を教えてきたつもりなのに。
こんな陰湿ないじめをするようなガキに育ったのは、俺の責任だ、
そう思ったら、くやしくて、情けなくて、また息子を殴った。
鼻血を出してうずくまる息子を見下ろして仁王立ちになった俺を、
職員室から飛び出して来た担任が止めた。

もうこの先は書きたくないから書かないが、
帰り道で涙が止まらなかった。
全部俺の責任なんだ、そう思うといたたまれなくなった。
小学校の高学年から高校までいじめられていた俺の、
よりによってその息子が、あんなことをしていたなんて。

816 名前:大人の名無しさん 投稿日:02/05/18 15:49 ID:+vTvU5ax
今までROMだけだったのですが頭痛がする程泣きました。

去年、高校時代の友人の妹さんが亡くなりました。
一時期は家族同然の付き合いだったのに私の仕事の都合で数年間は電話のみでのお付き合いでした。
私の離婚をきっかけに数年振りに実家に戻って家で仕事をしながら静かに暮らしていたある日の午後、友人から電話がなりました。
「妹が死んだから葬式をする。都合が悪く無かったら来て欲しい。」と。
友人は私が実家に戻っている事は知らず、親にでも連絡出来れば、と思っていたそうで。
私は急いで支度をしてお通夜に駆けつけました。
行けば友人が受付に立っています。
私は受付を代わって友人には他の御家族と一緒に席に座ってもらいました。

通夜が終わってからも私は葬儀場に残って親御さんや友人と一緒に過ごしました。
彼女の冷たくなった頬を撫で、お別れをすまし。
友人も弟さんも気丈に振舞っていましたが時間が経つにつれ涙が止まらなくなっていて。
私は傷心の御両親の代わりに葬儀の手続きの全てを任され、葬儀場の方と打ち合わせをしてから長女であった友人と相談して妹さんの為にケーキを焼こう、という事になりました。
妹さんはお菓子作りが趣味だったので好きなケーキを焼いて供えよう、と。
その日は一度友人宅に戻って一緒にケーキを焼き、次の日の御葬式の準備をして御両親を休ませて弟さんと少し話をしてから私も仮眠をとりました。

次の日、妹さんを送り出す為に棺桶に花を入れていたら涙が溢れてきました。
それでも、その場では取り乱さずに火葬場に行って骨を拾って、来て下さった方々にお礼を言って…
一日が物凄い速さで過ぎていって、その夜も私は妹さんのお骨と一緒に友人の家に帰りました。
御線香を何度もあげながらお母様と静かに話をしました。その時に妹さんの死因を初めて聞きました。
自殺だったそうです。
長い事引篭もりで学校もあまり行かずに家の仕事(自営業なので)を手伝っていた、と。
高校の時は苛めを苦に学校を辞めたが私と友人が通っていた高校の定時制に入り直した。
妹さんの部屋を整理していた時に出てきたノートには、「お姉ちゃんと大好きな先輩が行っていた学校に入れた。とても嬉しい。」と書いてありました。
お母様は妹さんが引篭もりなのを心配されて色々と遊びに誘ったりしていたそうです。
他にも悩んでいたみたいだったのに、親兄弟には何も言わなかった、と。
「あの子は●●(私の事です)が好きだったからね。もう少し早く電話すれば良かったね。そうすれば私達に云えない事も●●になら云えたかも知れないのに。」
「あの子にはきっとこの世は苦しかったんだ。だから一足先に逝ってしまったんだ。」
泣き腫らした目でそう言われました。笑っていた姿が忘れられません。
どうやら妹さんは悪い友人と縁を切ろうとして御家族と家族会議をした日の晩、一番遅くまで起きている弟さんが寝るのを待って早朝に階段のところで首を吊ったそうです。
「私があんな風に追い詰めなかったら…」とお母様は悔やんでいました。
自殺するなんて…、と私は悔しい気持ちでいっぱいで妹さんの遺影の前に座ってずっと線香をあげながら泣いていました。
気が付いたら涙が止まりませんでした。きっと御家族の方が辛いのに…、と思いながら数年前まで一緒に遊んでいた妹さんの記憶ばかり思い出しました。

その後は妹さんの部屋を整理して妹さんが犯罪に巻き込まれていた事を知ったのでご両親と相談して警察へ行ったり、妹さんの代わりに仕事をお手伝いしたりしていました。
少しでも何かしたかったのです。自己満足かも知れませんが。

今は友人とも電話を時折します。御家族も立ち直られたそうです。
もうすぐ一周忌なのでお墓参りに行きたいと思います。

最後に。
H、天国から見ているか?
お前が苦しかったの、気付いてやれなくてゴメンな?
みんながお前を愛していた事を伝えてやれなくてゴメンな?
暫く顔も見せんで不義理しとるけど、来月の命日には逢いに行く。
お前の好きだったケーキとピンクのリボンを持って。
もう苦しまなくて良いからな?
ゆっくりと…眠って良いんだよ。
今度生まれてきたら、また傍においで。一緒に遊ぼう。
お姉ちゃんとお兄ちゃんと自分と、沢山沢山遊ぼう。

長文ですみませんでした。

850 名前:大人の名無しさん 投稿日:02/05/21 22:03 ID:NdGdJRmk
20代ですが、書かせてください。

上京して1年半経ったGWに、久しぶりに帰省した。
我が実家はS県の東部、東京からは1時間程度。
私は東京で一人暮らし。
単身赴任の父は妹と3月まで大阪で二人暮らししていたが、部下の不正の責任をとって
東京の本社戻りになっていたため、実家から東京へ通勤していた。
正月ぶりに揃った家族だが、一足先に妹が大阪に帰り、私も帰る時間が迫ってきていた。
私と両親とで駅近くのイタリアンレストランで早めの晩餐をとった。
他愛のない会話。その中で父が言った。
「二人とも帰っちゃうと……寂しくなるなあ」
……意外だった。そういうことを口にするような父ではなかったからだ。
やり手の営業マンの父が思うように仕事もできず、会社と家との往復の中で、
きっと精神的にもまいっていたのだと思う。
鼻の奥がつんとして、涙が出そうになり、私はトイレに駈け込んだ。
涙が溢れるのを押さえることしかできなかった。

……駅の改札で両親が手を振って見送ってくれるのを、私はもう正視できなかった。
しゃがんで大泣きしてしまいそうだったから。
新幹線に飛び乗り、私はトイレで泣いた。

ゴメンナサイ。うまくかけなくて。
現在、父は某県でバリパリ働いています。
定年まであと数年、思い通りに働いていて欲しいです。

852 名前:大人の名無しさん 投稿日:02/05/22 15:51 ID:X0olI3yJ
まだ20代で申し訳ありません。
若造の戯言だと思って聴いてやってください。
もう何年も前のことです。
学校に両親から電話がありました。
先生に呼び出されて電話にでてみると、
「Tちゃんが電車にひかれた。今からおじさんのところにいくから、すぐ帰ってきなさい」
Tちゃんは、当時4歳で父の弟さんの遅くにできた一人息子、私たちにとって従弟でした。
え、何の事?と最初は思いました。冗談じゃないのか?これは夢?
電話を切り、先生に事情を説明しているうちにぽろぽろと涙がでてきてしまい、
とにかく、落ち着いて気を付けて帰りなさい、と言われ何がなんだかわからないまま帰宅しました。
北陸の田舎から関東まで、車で叔父宅へ行きました。
車中どんなことを考えていたのか、ただ、まだまだ小さかったあのかわいい従弟が、
家が遠くてまだ数えるほどしか会ってないのに、現実に、今もはうこの世にはもういないのだ、
など頭の中をぐるぐる回っていました。
叔父宅に到着し、部屋へ通されました。
小さな小さな棺がありました。
「あんまりきれいじゃないけど、もしよかったら見てやってください」
叔父さんが言いました。(続く)

854 名前:852 投稿日:02/05/22 15:53 ID:X0olI3yJ

すぐ近くに線路があり柵がきちんとしてあったはずが、
壊れている部分があり、そこから入り込んだそうです。
ちょっと目を離したすきに…
おばさんが探しにいった時はもう遅かったそうです。
皆が棺を覗き、泣いています。
私は怖くて、かわいかった顔を思い出せなくなりそうで見る事ができませんでした。
次々と流れ出てくる涙をこらえようとするので精一杯でした。
叔母さんが自分が目を離したせいで、と自分自身を責めて泣いているのを見て、
とても胸が苦しくなりました。
私は、誰を責めるものではない、なんともいえず理不尽な気持ちで
とにかく悔しくて哀しくて泣いていました。
誰も悪くないのに…
Tちゃんは言葉の発達が遅く、いろいろな所へ行ってがんばって勉強していたらしいです。
最近やっと「お父さん、お母さん」が言えるようになったのに。
まだまだ小さかったとき、いないと思ったら階段に登っちゃってたり、
トイレのなかに落ちそうになってたりしたよね。
私たち兄弟にとって、父方のたった一人の従弟。
小さな小さなかけらになったけど、忘れないよ。
今私にもTちゃんに似たかわいい息子がいるよ。
優しい叔父さん、叔母さんに負けないくらいたくさん愛してあげよう。

855 名前:852 投稿日:02/05/22 15:55 ID:X0olI3yJ
そして、叔母さんへ。
こんなことがあって、自分をたくさん責めたことだと思います。
うちの実家へ来づらいのもよくわかります。
でも、私は叔母さんのことが好きです。
祖父母は二人なりに思うところがあって、きつい部分もあると思います。
でも、せっかく縁があってこうして家族となり、皆が仲良く、とは虫がいいかもしれませんが、
何か少しでも力になることができないかと思っています。
贈ってくれた積み木や絵本、喜んで遊んでます。いつかお返しができれば、と思っています。
ココを見る事はないかもしれないけど、最後に一言。
おばさん、がんばれ!

駄文で申し訳ありません。スレ違いかもしれませんが、どうかお許しを。

448 :22歳ですが 1/2 :03/07/16 10:19 ID:f9HVyXOg
今年、母が亡くなった。

遅い反抗期だったと思う。
中学生まで親に逆らわず良い子だった俺が、高校生になり急に親に反抗するようになった。
母親には罵声を浴びせ、家に帰らない日々が続いた。
高校卒業と同時に家出同然に実家を出た。
最初のうちはそれでも住所くらいは伝えていたが、住所を何度か変えるうち
いつの間にか両親との連絡は一切途絶えてしまっていた。

唯一電話番号を教えていた(それでも一切連絡のなかった)弟から電話が来たのは、
俺の彼女のお腹に子供がいることが判明した今年2月の事だった。
母が倒れたと言う。

両親に対する反抗心はもうなかったが、いまさら帰るのは正直億劫だった。
母が深刻な状態などとは思ってもいなかった。
それでも行く気になったのは、彼女を紹介しようと考えたからだ。

母親が亡くなったのは、翌日俺たちが高速道路を走っている頃だったらしい。
久しぶりに会った親父はひどく小さな背中をしていた。
相変わらずの無骨な声で、「よう」だか「おう」だか一言発しただけだった。
母は俺の記憶とは全く違う老いた顔で、それでも安らかな表情で眠っていた。
涙は出なかった。

449 :22歳ですが 2/2 :03/07/16 10:20 ID:f9HVyXOg
葬儀も終わって一週間位たった頃、親父から俺宛にひとつの段ボール箱が届いた。
中身は父の無骨な字で書かれた「母さんの形見だ」というメッセージと大量の手紙、
そして、ひとつの指輪だった。

百通以上はあろうかという手紙は、すべて母が俺に宛てて書いたもので、
俺が家を出た頃から書いていたらしい。母らしい丁寧な字で
ひたすら俺のことを心配する、そして自分の不甲斐なさを俺に詫びる内容だった。
それらの手紙は、親父らしからぬ几帳面さできちんと順番に梱包されていた。

同封されていた指輪にも一通の手紙が添えられていた。
「この指輪は、私のお母さん、つまりあなたのおばあちゃんの形見です。
私が結婚するときにもらったものです。あなたにいい人ができたら、
この指輪をプレゼントしてあげてください。私の両親や私たちのように、
幸せな家庭を築いてください。」

俺は指輪と手紙を彼女に渡して、黙って寝室に行った。
しばらくして彼女が真っ暗な部屋に入ってきて、
俺の背中に背中を合わせて座った。すすり泣いていた。
その時、「あぁ、泣いてもいいんだ」と思った。涙が出てきた。止まらなかった。

母さんごめんな。そしてありがとう。
生まれてくる娘の名前には、あなたから一文字頂きます。
あなたに返せなかった愛情を、そのぶんこの子に与えられるように。
そして、あなたの優しさや強さをこの子に伝えるために。

591 :大人の名無しさん :03/08/09 11:41 ID:H/FVJpNz
ある女の人が学生の頃に暴行されました。
男性不信になった彼女はずっと男性を避けていましたが、会社勤めをしているうちにそんな彼女に
熱烈にアタックしてくる人がいました。
その男性の優しさや「こんな自分でも愛してくれるんだ」という気持ちから、彼女も彼と交際を始めました。
そして交際を重ねて二年、ずっと清い交際を続けてきた彼が彼女をホテルに誘いました。
彼女は「大好きな人とできるのだから怖くない」と自分に言い聞かせましたが、やはりベッドの上で
パニックを起こしてしまったそうです。
その時、彼は彼女が泣きながら切れ切れに語る辛かった過去を辛抱強く穏やかに聞き、最後に
泣き伏してしまった彼女に「ずっと大変な事を一人で抱えてきたんだね」と頭を撫でたそうです。
そして彼女の頭を一晩中撫で続けながら、彼女に語りかけていたそうです。
「これからはずっと俺が守るから。もう怖い思いはさせないから」
「焦る事は無いよ、ゆっくりと分かり合おう」
「君はとてもキレイだよ、ちっとも汚れてなんかいないよ」

「ごめんなさい」と繰り返す彼女に、彼は一晩中優しく語り掛け
「いつか、君が僕との子供が欲しいと思う時まで、心で深く分かり合っていこうよ。
僕が欲しいのは君の体じゃなくて君自身だよ」
と言い、その後彼女と結婚するまでの五年間、おでこにキスくらいまでの清い交際を続けました。
そして結婚してからも焦る事無く、ようやく初夜を迎えることができたのは結婚後二年経ってから
だったそうです。

そして、私と弟が生まれました。

弟が二十歳になるのを待って、母が初めて子供二人に語ってくれた話でした。
その話を聞いたとき、母の苦しみや父の愛情、そしてそれに母がどれだけ癒されたのか、今ここに
自分の生がある事のありがたさを知って、ボロボロと泣きました。
お父さん、お母さん、愛し合ってくれてありがとう。

601 :591 :03/08/11 10:45 ID:c/BoqKRz
さらにその後、父とその件について話した事があったのですが、ホテルでの一件の後
父は結婚してから母を一人にする事のないように自営業を始めるため、五年間貯金を
したそうです。
開業資金、結婚資金が貯まって、母にプロポーズをした時も「一生子供が作れなくてもいい」
と思っていたそうです。
実際、振り返ってみても父と母はいつも一緒にいた所しか思い出せません。
そんな両親も今はこの世にはいません。
二年前に母がすい臓ガンで、昨年父が脳卒中でこの世を去りました。
母の命日に位牌を抱いたまま冷たくなっていた父を見て、弟と二人号泣しました。
「お父さん、本当にお母さんのことが大好きだったんだね」と大の大人が葬式で
わぁわぁ泣きました。
法事まで母を一人にできなくて同じ日に亡くなったんでしょうか。

私たちを叱る時、精一杯厳しくしようとして、出来なくて、目に涙を浮かべながら
一生懸命大きな声を出していた父と、大きくなって「恥ずかしいよ」と文句を言っても
私たちの頭を良く撫でてくれた母。
本当に最高の両親でした。

88 :大人の名無しさん :03/03/21 18:02 ID:hIId7vE5
もう10年以上前に妹を亡くしました
母が妊娠中期過ぎあたりで早産し、生後1週間ほどでこの世を去りました

ミルクも飲めず管をたくさん付けられて、保育器の中で一生懸命動いていました
小さい小さい体でよく1週間も生きていてくれました。

家に連れて帰り、管の付いていない顔を見ている時はなんとも思わず
顔だちが綺麗だとか、もったいないとかそんな話をしていました
葬式の準備の為父の実家に行き、妹を仏壇の前に寝かせて大人達が
せわしなく動いている様子を見ていましたが、服を着せるのか何か
準備があったようで(このあたりうろおぼえなのですが)叔母が
布団をめくったとき
「ああ、ちゃんと手を組んでるんだねぇ」と言ったので、妹の手に
目をやりました。

小さい手、細い指、それがしっかりと胸の上で組まれているのを見た瞬間
のどの奥に物凄い圧迫感を感じ、瞬時に「吐く!」と思ったので
突っ伏したのですが、のどの奥からは何も出て来ず、かわりに涙がぼろぼろ
出て来るのを止められませんでした。

その後の事はあまり良く憶えていません、次にある記憶は火葬場でした。

未だに妊婦さんや赤ちゃんを見るとふとこの事を思い出してしまいます。

304 :大人の名無しさん :03/05/25 22:14 ID:Qre67Gk0
先日、一人でテレビを見つつ、酒の肴に鍋を食べていた。
自分なりに、見切りのアラとか、そこそこ野菜も贅沢した上で満足して
ハフハフ食べていたとき、なんか思い出したことがあった。

あれは、俺が中学一年の頃、父が亡くなって半月ほど経った日だった。
それまでバタバタ非日常の日々を送っていた母と俺、そして弟がやっと
落ち着いてコタツを囲んで鍋を突付いてた日のことだった。
確かあの日も、近所のスーパーで魚のアラが安くて、母が買ってきて
鍋にしよう、と言ったんだと思う。父の飲み残した酒を「もう飲まないから
いいよね」と母がどぼどぼ鍋に注いで、ああ勿体無いなぁと話したのを
覚えている。

ぐつぐつ煮立っている音とは別に、弟がいきなり泣き出した。ほんとうに
突然泣き出したんだ。俺はそれをすごく女々しいと思い「お前が泣いたら
お母さんが泣いちゃうだろ。泣くな!」と強がって言ったけど、そうしたら、
今考えてみたら当たり前だけど、母も泣いちゃったんだよね。つられて
俺も泣いた。わんわん、三人で泣きながら鍋を食べた。

ふと思い出したことだけど、あれは家族の情景というにはあまりに過酷で
切ない思い出だった。今の俺には、その切ない思い出を共有できる人が
居ない。それもとても寂しい。

107 :大人の名無しさん :03/04/01 02:25 ID:qLQp5+3Y
高校生の頃、親友が自殺した。
原因は、中絶したことの罪悪感からだった。
その子はとても大人しくて男と付き合って、
ましてやそんなことをするようには
全く見えない子だった。
初めにうち明けられた時は、彼女のお腹には赤ちゃんがいた。
両親とはもめたが産むことを許してもらえたと、とても嬉しそうだった。
しかし、彼女の笑顔を見たのはそれが最後だった。
保母さんになるのが夢だった子供好きの優しい子だった。

次にあった時彼女はとてもやせこけていた。
彼女は何も喋らなかった。ただただ泣いていた。
きけば、相手の親にこっぴどく罵倒されたと彼女の母から聞いた。
しかも相手の男は、声も出さずに泣いていた彼女をかばうことなく
淡々としていたというのだ。
そして、「うちの息子の子供だという確証はあるんですか?」とか
「子供が出来たのはお嬢さんの知識が不十分だったんじゃありません?」
とまで言われたのだという。

ただでさえ精神的に弱っていた彼女は追い詰められ、とうとう中絶を決意した。
そうでもしなければ、相手の親が毎日でも嫌がらせにやってきていた。

108 :続き :03/04/01 02:28 ID:qLQp5+3Y
手術当日、私は彼女に付き添って病院まで来ていた。
あれ以来ほとんど何も食べていない彼女の身体はやせほそって
手術に耐えられるかどうかさえ危なかった。
直前まで彼女はずっと空を見ていた。
会話は全く無かった。

数時間後、彼女の手術が終わった。
まだ完全に麻酔の切れていない彼女は、泣きながら上の空でずっと
「赤ちゃん天国いけるよね・・・」「赤ちゃんちゃんと供養されるよね・・・」
「ごめんね・・・ゆるして・・・」と繰り返していた。

私は彼女が落ち着くまでしばらく会わないほうがいいと思い、
家に立ち寄らなかった。
今思えば、もっと会いに行けば良かった。本当に後悔している。
数週間後、彼女の母から電話があった。
彼女が自殺した、と。
呆然とした。何も考えられなかった。
もしかしたら手術の失敗で・・・とも思った。
自殺だとは考えられなかった。
私はまっさきに相手の男に問いただした。
すると、手術代に慰謝料まで上乗せしたしたんだから
もう関係ない、自分は悪くない、と抜かしたのだ。
生まれて初めて、人に殺意を抱いた。
泣きながら、そのどうしようもない男に目一杯の言葉を
浴びせてやった。男は反省の色など全く見せなかった。

109 :続き :03/04/01 02:29 ID:qLQp5+3Y
通夜にも葬式にも相手の親は表れなった。
世間体、彼女の死の原因は拒食症、ということになっていた。
私は悔しくてたまらなかった。
相手の学校にバラしてやろうかとも思った。
だが必死に押さえた。そんなことをしてもあの子は喜ばない。

納骨された彼女の骨はほんとうにわずかで、少なかった。
高校二年の冬のことだった。

あれからあの子のような経験をする子が一人でも減らしたいと思い、
産婦人科医を目指したが挫折し、今は高校の保険医をしている。
複数の異性と付き合うのが当たり前になってしまった
現代の子供達の、私のお説教がちゃんときいているかは
分からない。が、避妊に対する考えを改めてくれた生徒もいる。
今でも、彼女の親とは交流が続いていて、月命日には
お線香をあげにいっている。

358 :大人の名無しさん :03/06/13 01:02 ID:JV1dRlb4
父親が死んで随分経つんです。
父親はまあ、母親に言わせると「ろくでもない人」で、
とある自営の仕事についていて、その仕事には随分とお金がかかり、
家には一銭も金を入れない。母親の稼ぎでうちは食べていたよう。
裕福な暮らしじゃなかったですよ。借金もあったみたい。
荒い気性で、カーッとなるとワァワァ五月蠅く手は早く、
ぼごぼご叩かれたり、縁側から蹴り落とされたりしましたねぇ。
でも、母親のおかげで食べていけてるという気持ちはあったようで、
なんかたまにヒクツなところがあったと、子供心に思い出せます。
ある日突然、心不全でなくなってしまったんですけどね。

それでね、聞いてください。ついさっきのこと。
あまり使わない箪笥のひきだしの奥、なんか紙みたいのがつっかえてるんですよ。
何だろ?と思って取り出してみると、家の設計図みたいなの。
きれいな図面で、専門家が描いたものだと思います。
母親は外に勤めに出ていた美容師で、なんとその図面には美容室がある。
わたしの部屋は庭に面していて、なんかキンモクセイって鉛筆の手書きで書いてある。
わたしは金木犀が好き。庭があったら植えたいなぁって思ってた。
いちばん笑ったのが父の仕事の作業場。すんごいデカイの!
母とお茶を飲みながら、
バカだー、借金もあるのにさ!いつ描いて貰ったんだこんなのーとか、
笑ってたんですけど、いつの間にかわたしも母も泣いていた。

喧嘩ばっかりしてたけど、お母さんのことやっぱり好きだった?
金木犀が好きなんて、わたしいつ言ったっけ?
しんどいしんどいって言ってたけど、やっぱり仕事好きだったんだ?
そういうの隠さないで、もっともっと口に出して欲しかったよ。
ああ、もうつまり……どうしてあんなに早く死んじゃったの?
わたしが大人になるまで、今こうやって、少しはあなたの気持ちをわかるまで、
この家を建てられるまで、生きていて欲しかった。

ひきだしの奥に隠してあったわたしの、お父さんの、夢の家。

286 :今年30 :04/01/23 12:14 ID:RfClfkeo
仕事中にこんなこと書いてたら親父に叱られると思うけど。
4年前の6月のこと。
東京で働いていた俺は親父が仕事中に怪我をしたため実家に帰った。
木の破片が右目の少し下に突き刺さったらしい。
あと2センチ上にずれていれば命はなかったと医者に言われたそうだ。
そして家業(材木屋)の手伝いを始めた。
毎日何度も叱られた。
小さいときから叱られてばかりだった。親父といてあまり楽しい覚えはない。
クリスマスに買ってもらった大きな戦艦大和のプラモデルを完成したといって見せたら、
「せっかく買ってやったのに、なんでちゃんと作らないんだ」
と言われて、床に叩き付けられたり。

それが怪我の後遺症で右目は視力はあるものの動かなくなり、
まるで手負いの猛獣のようだった。大きくなっても叱られてばかり。
「帰ってこなければ良かった」
毎日そう思ってた。
ある時母親と二人きりになった。
母「怒られてばかりで大変ねえ」
俺「帰ってこなければ良かった」
母「けどお父さん、怪我で入院してるときに東京から見舞いに来てくれたとき、
 ○○がわざわざ来てくれた。って泣いてたよ。今もたまに帰ってきてくれて助かる。
 って言ってるし」

俺にとって最強の親父が泣いたという。
なんか胸がつぶれそうな感じだった。涙出そうだった。
嬉しいのか、寂しいのか、わけがわからなかった。
怒らせてばかりでも少しは親孝行できてるのかな、と思い嬉しかった。
なんか中学生のときに腕相撲して勝ったときよりも寂しかった。

287 :今年30 :04/01/23 13:50 ID:RfClfkeo
次の年の2月に俺の子どもが生まれた。
嫁さんの実家が800キロも離れているので一人で行くつもりだった。
嬉しかったが、これからのことを考えると少し複雑な気持ちだった。
配達から帰るとそれまで絶対行かないといっていた親父も行くという。
1月に親父は夢だったパジェロエボリューションを中古で買った。
どうやらこの日のために1月納車にしたらしかった。運転中、
「やっぱりぜんぜん違う」
それまで乗っていた10年落ちのパジェロディーゼルとの違いにご満悦だった。
なんかいろいろ褒めちぎっていて、子どもみたいだった。

初孫との対面。
「お前によく似てる」
目を怪我して以来ずっとサングラスをしている親父が
しばらく一人でガラスの向こうの俺の子どもを見ていた。
どんな目で見ていたかはわからないが、かなり嬉しかったのだと思う。
口元がにやけていた。
名前は、俺が決めた。漢字をしぼりきれずにいたので、親父にたずねた。
俺の名前は親父から一文字もらっていたが、子どもには親父からもらった漢字を使わなかった。
「こっちのほうが強そうでいいな」
二人の意見が一致して2つの候補から漢字を決めた。

それからひとしきり姓名判断のことについて話をした。
俺も苦労したが、親父も俺のときに苦労したこと。
どういった思いで名付けたかということ。
俺は親父の思いにこたえることができているのだろうか。
名前負けしないようにがんばろうと思った。
まだまだ勝ってない。
そのあと生まれたての子どもを見て、急に実感がわき、泣いた。

289 :今年30 :04/01/23 16:04 ID:RfClfkeo
子どもが生まれて、親父は少し変わった。
仕事の話しかしなかったのに、
子どもが気になるみたいで「どうしてる?」とか、
俺が小さいころ、なにをした、ああだった。という話をするようになった。

「連れまわせるようになったらどこに行く、そこでこんなことさせる。
泥だらけで遊ばせて俺の嫁さんを困らせてやる」
楽しそうだった。
予想はしていたがまさかここまでメロメロになるなんて思ってもいなかった。
「○○ー、○○ー」
子どもの名前を呼びながら子どもを抱きかかえてあやしたりしていた。
恥ずかしいのもあるのか呼び方も少しぎこちなかった。

290 :今年30 :04/01/23 16:08 ID:RfClfkeo
親父は前の年の12月に怪我をした目の手術をした。
6月の俺の弟の結婚式にはサングラスをしなくてもいいように。
まぶたが閉じないので閉じることができるように、
余分な涙が鼻の中へと流れていく管の再生、
陥没した頬骨の整形、
眼球を動かす筋肉を結合するため。
結果はあまり良くなかった。
木の破片がぎざぎざで、筋肉は結合できないみたいだった。
サングラスをしていないと右目だけが見開かれている状態だった。
頬骨にはプレートとビスが入った。

結局その年の6月の弟の結婚式にも親父はサングラスをかけて出席した。
披露宴が終わったあと、
親父にならい俺と一番下の弟はサングラスをかけて弟夫婦と写真を撮った。
親父と俺ら3兄弟で写真を撮ったのはこれが最初だったと思う。
そして最後だった。

661 :大人の名無しさん :04/05/17 02:36 ID:uOVY+GoM
20年前の話です。私は中学生でした。
癌告知を受けて4ヶ月で亡くなった父ですが告知はしませんでした。

私にも知らせないように兄と母はしていましたが私は些細なことで知っていました。

知っていることを内緒に振舞うことに必死だった。
父のベッドの横で父と話したくて何を話して良いかわからなくて父の植物図鑑を
見てこんなん好きかも〜とわざと父の好きそうなえびねなど指差して話し掛ていました。

顔を合わせられずベッド横の介添えベットに寝転んで下を向いて本を見つつ
話私の頭に父のベッドから腕が伸びて来て私の頭をナデナデナデ・…。
30分あまりそのまま話もせずに撫でられた記憶が忘れられません。
涙が出そうで顔を上げられず、話も出来ず。

多分病名など知らずとも、長くないことは知っていたのだろうなあと思います。

662 :大人の名無しさん :04/05/17 02:37 ID:uOVY+GoM
20年たって結婚して子供も出来ました、実家に実母と同居しています。
入院したまま家に帰ることの出来なかった父。
今年も父が植えていたエビネが庭に咲きます。

私が本で指差した花は、父が庭に植えていたので見覚えのあるものだったようです。

今は私の子供がそのエビネを私に摘んでくれたりします。
孫を知らずに亡くなった父ですが、残した花で子供が遊んでいるのを見ると
一緒に遊んでくれているような気がします。

ありがとう父。
私も親になりました。

604 :大人の名無しさん :04/05/11 00:03 ID:PQeHPMxB
昨日、親父の七回忌だった。

うちは本当に貧乏でさ、商売やってたんだけど、つぶれてシャッターがおりてる店がほとんどの寂れた商店街の隅っこに店があって、それでも「店で待っていてもお客は来ない」って両親は毎日毎日朝から晩まで注文取りに走り回ってた。
俺は五歳下の妹と二人兄弟で、小学生の頃からいつも二人で夕食を作って遅くまで両親の帰りを待ってた。
小学生の料理なんてうまいはずはないけれど、親父は「お前たちのカレーはすごくいい味だ」ってほめてくれた。
明るい家族だったから、貧乏でも楽しかった。
休みの日には、大きな鍋とインスタントラーメンを持って海に行って、たき火をしてラーメンを煮て食べた。
おいしかったなぁ。
小学校中学校と放課後友達と遊んだ記憶はほとんどない。
妹の面倒見なくちゃいけなかったし、家の手伝いもあったし。

高校受験の時にね、「こんな暮らしをしててもお前は貧乏から抜け出せない。家のことはいいからちゃんと大学出て、自分でやりたいことを見つけろ」って親父が言ってくれて、鹿児島の全寮制の高校に行かせてくれたんだ。

バイトはできなかったけど、運良く奨学金がもらえて仕送りなしで高校に通えた。
たまに帰省すると、その度にくしゃくしゃの千円札を母親に隠れて何枚か渡してくれて、「少しで悪いな」って。
そんな金使えないよな。
今でもしまってある。
35枚。

馬鹿なりに一生懸命勉強して東京の国立大に受かった。
ホントは受かっただけで満足だった。
でも、親父すごく喜んでさ「商売がんばってるから大学行ったら仕送りしてやれるぞ」って。

大学に入ってからはバイトバイトの毎日で、何とか授業料と生活費は自分で稼いだ。
大学でも寮に入れたから家賃は楽だった。
親からの仕送りは毎月三万円。
もったいなくて使えずに郵便局の仕送り口座にお金が貯まっていって、「好きに使っていいんだぞ」なんて手紙が来たりして。
そう言われると、苦労して送ってくれてるお金をそのままにしておくのも悪い気がして、毎月郵便局から引き出して、銀行の口座に移してた。

605 :大人の名無しさん :04/05/11 00:04 ID:PQeHPMxB
卒業間近になって、大学院を勧めてくれる先生がいたけど、早く就職して親に仕送りしてあげたいと思ってたから、断った。
そのころ、たまたま東京の親戚が亡くなって、東京に両親が来た。
何を思ったか研究室にまで押しかけて来ちゃってさ、先生に御礼なんか言ったりして。
そうしたら先生が余計なこと言い出しちゃって、大学院を親に勧めるのよ。
親父またまた喜んじゃって「なんで断ったりするんだ」なんて叱られちゃったりして。
結局、大学院にも進ませてくれた。
同じ大学の大学院に行くときも入学金って必要なんだよね。
毎月の三万円積み立てから25万円出した。
初めて仕送りを使った。

大学院に行ったら、研究で食っていけるかななんて思い始めて、学振の特別研究員に受かった(月に20万も給料が出る)こともあって、修士終わってから博士課程に進むことにした。
博士になったら学生なのに仕送りができる!って内心かなりうれしかった。

修士論文を提出した日。
初めて母親から研究室に電話。
「どうしたの研究室に電話なんかして。修士になったよ。次は博士だぞ。」
「あのね、お父さん、ここ何日かずっと調子悪いって言ってて、今日胃カメラ飲んだの。写真見せてもらったら、ものすごい状態だった。」って。
末期の胃ガン。
背中の方に向かって進行していたから、食欲も衰えずに気づかないことがあるらしい。
目の前真っ暗。
頭の中真っ白。
「そんなわけないだろっ」って大声で叫んでしまって、同じ研究室の学生に「どうしたんですか」って。

606 :大人の名無しさん :04/05/11 00:05 ID:PQeHPMxB
医者に電話したら「一日でも早く手術しないと」って話で、友達にお父さんが医学部の教授ってやつがいて、そいつに頼んで「消化器ガンなら日本一」って先生を紹介してもらった。
三日後に入院して七日後に手術。
胃全摘、脾臓全摘、膵臓半分摘出の大手術。
手術の前の晩、親父と二人で人気のない病院のロビーで、手術のこと話した。
地元の病院で撮った胃カメラの写真を見て、自分の病気はよく知っていた。
どんな状態かも知っていた。
でも「悪いところ取って、ようやく第二の人生だな」と笑って言っていた。
明るい親父に家族はどれだけ救われたか。
手術が終わって、先生に摘出した臓器を見せてもらった。
金属製のバットに山盛り。
こんなに取っても人間は生きられるのかって思った。
先生は「取れるところはすべて取りましたよ。後は抗ガン剤で転移巣をやっつけます。」と言っていた。
でも、手術後少ししてからずーっと背中に激しい痛み。
抗ガン剤も効果はいまひとつ。
俺と妹と母親と、親戚の家から毎日病院に通って交代で夜通し付きっきりの看病。
妹は50kgから30kgに激やせ。

もう痛みが我慢できないと言うので、真っ赤なモルヒネ錠剤を経口で投与して痛みを抑えてた。
モルヒネが効いているうちはなんとか普通の感じ。
車いすに乗っけて、中庭に連れて行ったりもした。
俺、親父と二人っきりでいたことなんてないからなんとなく気まずくて、車いすを景色のいいところに押していって、少し離れたところでぼーっと座ってた。
「近くにいてくれないか」と言われて近くに行ったら、子供の頃手をつないでもらった時とは比べものにならないくらい細くなった腕を膝掛けから出して、しわしわになってしまった手でぎゅっと手を握られた。
二人で声も出さずに泣いた。

607 :大人の名無しさん :04/05/11 00:06 ID:PQeHPMxB
ある日「五年後の話をしてくれないか」とベッドの父に聞かれて、
「俺は29だからたぶん大学で研究してるな。
妹は24か。結婚して子供もできてるかもよ。
お母さんは、うーん、まだ店がんばってるんじゃない?
お父さんは、退院しても胃がないから、毎日グルメ番組見て、あれがうまそうだ、とか、これ買ってこい、とかわがまま言ってるかもよ」
なんて答えてた。
そんなに長く生きられるなんて俺も親父も思っていなかったくせに。
五年後がどんなに遠い未来なのかも分かっていたくせに。

結局、親父は死んでしまった。
手術から三十三日。
病院で胃カメラ飲んでから四十日。
62歳の誕生日から十日。
夕方研究室から病院に行ったら、もう息を引き取ってた。
「実験してるだろうから、呼ばなくていいぞ」って言ってたらしい。
最後に何かを言い残したらしい。
でも、俺は親父がなんて言ったのか知らない。
悲しすぎて知りたくない。

あんな大手術をさせて、殺してしまったのは俺だって、ずーっと思ってる。
俺が手術をすることを決めて、家族もみんな俺の言うことに納得してくれて、でもその結果、親父をあっという間に殺してしまった。
悔やんでも悔やみきれない。
ごめんな、お父さん。本当にごめんな。

葬式。
親戚が「まだ学校に行かせてるのか」なんて、何にも知らないくせに母親に言ったりしてた。
「この子はお父さんのできなかったこと頑張ってるんだから、私一人でも最後まで学校に通わせるつもりです。この子はお父さんの夢なんです。」
って、言ってくれた。
ドアの向こうでそれを聞いていた。
親は有り難いと思った。
もう泣かないつもりが、止めどなくあふれた。

608 :大人の名無しさん :04/05/11 00:06 ID:PQeHPMxB
お父さん。
あれから六年だな。
俺は大学で毎日研究をしてる。
今年、学会で賞をもらった。
去年、結婚した。
大学に入ってから仕送りしてくれたお金で、婚約指輪を買ってやった。
お父さんからだぞって言って渡した。
かずはお母さんの仕送りと俺の給料でなんとか大学に行かせてやれた。
四年で卒業して就職して、おととしお嫁に行った。
キャリアウーマンとかいって、かっこつけて歩いてるくせに、少し太った。
幸せそうだけど、たまに夫婦げんかをして泣きながら電話をしてくることがある。
お母さんは、一人で店を頑張っている。
一緒に住もうと言ってもまだ頑張るって、言うことをさっぱり聞いてくれない。
お父さんへの恩返しはもうできないけどさ、お母さんと妹といつか生まれてくる俺の子供に精一杯のことをしてあげるつもりでいる。
お父さんの描いた将来に少しは近づいているのかなぁ。

俺が生まれてからお父さんが酒もたばこもやめたって葬式で聞いた。
酒は飲めないんだと思ってた。
そんなことを聞いてから今まで、酒を一滴も飲まなかった。
昨日、法要が終わってから、高校生の頃お父さんがくれた千円札で瓶ビールとチューハイを買ってきた。
千円札を出すとき涙がでたよ。
違うお札にしようかと思ったけど、やっぱり使ってみた。
うちの奥さんと、お父さんの話をしながら酒を飲もうかと思ったんだ。
うちの奥さんは結構酒が飲めるらしい。
二人で初めて飲む酒はきっと楽しい酒だ。
さっきメールが来て、夕食はカレーだって。
俺が昔作ったのよりずっとうまいカレーをお父さんと一緒に食べたい。
カレーを食べながら話したいことがまだまだたくさん、たくさんあるんだ。

626 :大人の名無しさん :04/07/30 18:17 ID:l6CNHF5k
2年前、妻のメンヘル系の状態を軽減するため、俺の実家と
縁を切ることになった。俺の母親とのやり取りが少なからず
影響していたからだ。

遠く離れた実家に俺一人で出向いていって両親と話をし、
帰りの新幹線の駅のホームまで両親が見送りに来てくれた。

母親は顔をぐしゃぐしゃにして泣いていたが、それはそれで
予想どおりで大して悲しくはなかった。もう一生会えないかも
知れないという言葉にただ申し訳ないという気持ちでいっぱい
だった。

それより、普段冗談はよく言うが、悲しいとか寂しいとか
そういった感情を絶対に表にださない父親が、俺の手を握り
「最後に握手でもしておこう。」といった。彼なりの最高の
感情表現だと思った。

今でもその時の父親の事を思い出すと涙が止まらなくなる。

61 :長くてスマソ :04/06/10 03:02 ID:lBw2+bh+
闘病中の父がいる。
難病で、悪くなりこそすれ絶対に治る事はない。
筋肉の萎縮・痴呆・性格の激変etc.、かなり厳しい症状が、この先待ち構えている。
医師は気の毒そうに、『アルツの方がまだ…(マシ)』と言葉を濁した。

宣告を受けても、正直、悲しむ事が出来なかった。
一般に馴染みのない稀な病名であったので、現実感がなかった。
でもそれ以上に、急激に体の自由を奪われていく父の介護と、動揺する母を宥める事に
追われ、頭が考える事を拒絶していたのかもしれない。
雨の中、1時間近く歩いて実家に通った事もある。
夜、電話で呼び出されて、開いている薬局を探し回った事も。
育ててくれた親とは言え、入浴の介護の時、老いた全裸を見るのは忍びなかった。

現在、幸いな事に一時的にではあるが薬が効き、多少病状は安定。
いつの間にか、父を入浴させてあげる事にも抵抗が無くなった。
体調(意識)に波があるものの、良好時には、以前と変わらぬ会話を交わすことも出来る。
親切なケアマネさんに担当して頂き、介護の負担が大分軽くなった。
私も、平常の生活リズムに戻りつつある。

62 :大人の名無しさん :04/06/10 03:04 ID:lBw2+bh+
そんなある日、一人で台所仕事をしていたら、不意に涙が迸り出てきた。
今、どんなに元気そうに見えても、父の命は限られている。
恐らく、あと2・3年で、人間としての尊厳すら奪われるような状態になるだろう。
親兄弟に恵まれず、それだけに私たち家族を何よりも大切にしてくれた父。
若いときから何一つ道楽をせず、働き詰だった父。
これからやっと楽隠居をしようとした矢先に、こんな病に倒れて。
悲しい、情けない、悔しい。
感情が爆発し、号泣した。
気が付いたら、泡だらけのスポンジを握り締めたまま座り込んで、グチャグチャに泣いていた。

お父さん、私は決して良い娘ではなかったですね。
貴方の不器用な愛に甘えてばかりでした。
今だってそう。
少し楽になると、ずるする事ばかり。
お父さん、貴方の記憶が少しでも明瞭な間に、私は貴方の為に何がしてあげられますか?
もう直ぐ父の日です。
昔から何も欲しがらない貴方に、プレゼントを贈るのは至難の業でしたね。
お父さん、幸せな私の家族を見せてあげられる事が、貴方への最高の贈り物だと思って良いですよね?
お父さん、貴方がが旅立つ日まで、もう泣きません。

775 :大人の名無しさん :04/08/10 12:16 ID:GzVDqwja
お父さんへ。

娘はこないだ30になりました。
初夏のあの日に不意の事故で、突然いなくなったお父さん。
今も、お母さんとばあちゃんには「お父さんに旦那さんも見せない親不孝で」
と言われます。
でも、なくなる前、庭で草むしりしていたとき、ぼそっと「お前、結婚できそうな
彼氏はいるのか?」「心配しないでもいるわよ。相手くらい」「そうかぁ」
って会話したよね。今、私はその相手と結婚して一応幸せです。
結婚式、私はおじいちゃんとバージンロード歩こうと思ってたけど、
おじいちゃんもその3週間前にそっちに行ってしまいました。

お父さん、私には名前も顔も分からないけれど、
お父さんが最初に結婚したひととの間に姉と私が生まれて、別れて、
でも決してその人のことを語りませんでしたね。
どんな人なのか、知る術もないし、知る必要もないけれど、
私は実は子供は無理です。うちの家系でこの病気の人がいないから、
お母さんにもおばあちゃんにも黙っているけど、自分が死ぬか、子供をとるか、
そしてもし生まれても子供この病弱な体質、受け継がれちゃうと思います。
お父さん、どうしたらいいですか?相談したいなあ。
ちょっと体はつらいけれど、多分当分そっちには行かないので、
お盆のときにお墓に行くから、そこで話そうか。あと何日か待っててね。

…お願いだから、お願いだから、教えてください。
私はどうしたらいいのか。お父さん、相談したいよ!

490 :1/4 :04/07/19 02:34 ID:7i5beqVi
長文をお許しください。

家内を亡くしました。お腹に第二子を宿した彼女が乗ったタクシーは、
病院に向かう途中に居眠り運転のトラックと激突。即死のようでした。
警察から連絡が来たときはひどい冗談だと思いました。いつものように
今朝も笑顔で送ってくれたのに。冷たくなった彼女と対面しても現実
の事態として理解できませんでした。

帰宅して呆然としているところ、トラックを運転していた男性の父親と
婚約者の訪問を受けました。父親は土下座しながら、「自分と家内が死ん
でお詫びするから、息子には生きていく事を許してほしい」と。警察か
ら聞いたところによると、入院している母親の治療費を稼ぐため男性は
無理な労働をしており、それが居眠り運転をした原因のようでした。

同様に土下座している婚約者に目をやると、若くて綺麗な女性にもかか
わらず荒れた手をしています。本来ならとっくに結婚しているところ、
運転手の母親の入院のために延期し、彼女もまた入院費を捻出するため
に懸命に働いていると聞きました。私は何て言葉をかければいいのか
分かりませんでした。

罵ることができる相手だったらよかったのに。

491 :2/4 :04/07/19 02:36 ID:7i5beqVi
家内の葬儀にはトラック運転手が警察官に伴われて参列しました。彼に
は思い切り罵詈雑言をぶつけ、殴ってやろうと思いました。一生憎むつ
もりでした。しかし、震えながら土下座し私の顔を見ることのできない
彼を見ると、「彼もまたこれから苦しみを背負っていく人間なのだろう」
との思いがよぎりました。

「つまらない人間のために家内を亡くしたと思いたくない。罪は罪とし
て償ってもらうが、その後はきちんと生きて欲しい」。私が彼にかけた言
葉です。正しかったかどうか分かりません。本当の私の本音かどうかも
わかりません。ただ、私には彼を憎むことができませんでした。震える
声で返事をする彼をみると私の気持ちは伝わったようです。

怒りをぶつけられる相手だったらよかったのに。彼そして彼の家族に会わ
なければよかった。

492 :3/4 :04/07/19 02:37 ID:7i5beqVi
葬儀の後ようやく一人になれてウィスキーをなめていると3歳の長男が
起きてきました。私の横にすわりながら「お母さん大好きだったんでし
ょ。いなくなって悲しいんでしょ。悲しいときは泣くんだよ」と。私は
息子の前でも家内を愛していることを口に出す父親でした。好きな女と
生きていける幸せをいつも伝えてました。息子相手に、付き合った時ど
んなに楽しかったか、私の子供を生んでくれてどんなに嬉しかったか、
どれくらい幸せにしてくれたか、と家内の思い出をぽつぽつと語ってい
るうちに涙がとまらなくなりました。

今思えば、この時になってようやく家内及びお腹の子の死を現実のもの
として捉えることができました。そう、悲しくて泣くことによって。凍
結した感情が解凍したことによって。

情けない父親でごめんな。

493 :4/4 :04/07/19 02:39 ID:7i5beqVi
交通刑務所にいるトラック運転手から時折手紙が届きます。謝罪をつづ
った言葉ばかりですが、行間から彼もまた苦しんでいる様子が伺えます。
人の命を奪った自分が生きていってもいいのだろうか、と。また、彼の
婚約者から毎月手紙とともに金が送付されてます。最初は受け取りを拒
否しようと思いましたが、考えを変えて新しく作った口座に預金してい
ます。彼が出所したらファイルに綴じた彼の手紙とともに通帳を渡すつ
もりです。そして「これらのものを背負いつつ、きちんと人生を歩んで
欲しい」と伝えるつもりです。

私たち親子もまた大事な家族を失った事実を背負って生きていきます。
私は父親として、社会人として一生懸命な背中を息子に見せ、息子の目
に写る私は誰よりも強い男であるべく努めたいと思っております。家内
が安心できるように。二人で頑張っていきます。

だから時々泣くことは許して欲しい。誰にも分からないようにするから。

518 :490(1/3) :04/07/20 06:27 ID:GEt7DVtZ
レス有り難うございます。胸中を吐き出すことで少し楽になれ
ました。もう一度だけお付き合いください。

今回の事故により、私たち親子だけではなく大勢の方が苦しみ
を抱えることになりました。許してもらえなくも謝罪させてく
れ、と送金する婚約者。自分が入院したために息子が人を死な
せてしまったと嘆く相手の母親。そして自らを責め続ける運転
手本人。何度も自分に確認しましたが、私には懸命に生きる事
によって事故を起こしてしまった人間を憎むことはできません。

それでも正直に告白すると自らの弱さゆえに色々な葛藤があり
ました。無理に相手を恨もうとしたりもしました。被害者の立
場を利用して加害者を非難する考えが頭をよぎったこともあり
ます。相手も苦しんでいる事実に目を背けて大げさに周囲の
同情をひき、一方的に攻撃する。行き先のない気持ちを持って
現実から逃げるにはいいアイデアかもしれません。ただし、そ
の場合は私の持っている「大事な何か」が崩壊し、なによりも
家内及び子供達から軽蔑される事になるでしょう。私にとって
何よりも耐え難い事です。

519 :490(2/3) :04/07/20 06:34 ID:fmiL5bGd
運転手の手紙及び彼女からの送金は返すわけではありません。
彼が一生背負うべきものとして渡すものです。彼にしてみれば
罵られた方がよっぽど楽かもしれません。「一生苦しむ事は覚悟
しよう。肝心なことはそれを受け止めた上でどう生きていくか
だ」。彼に伝えたい事であり、今私が自分自身と息子に言い聞か
せている事です。

「彼を責めるのも許すのも彼自身にしかできない」。散々自問自
答した上で達した私の結論です。もっとも、自分の結論を理不
尽な理由で否定しては自己嫌悪に陥る、その繰り返しが今でも
続いています。ただ、彼には、彼のために苦労した御両親及び
婚約者を幸せにすることで自らを救済して欲しいと心から願っ
ております。

私と息子も失った家族の分も人生を充実させることに道を見出
したいと思います。

520 :490(3/3) :04/07/20 06:36 ID:fmiL5bGd
息子は最近「おもちゃ片付けたよ」、「ピーマン食べたよ」等今
までしなかった事をしたと報告してくれます。よく考えると家
内に叱られていた事ばかり。息子も自分なりのやり方で家族を
失った事の苦しさを乗り越えようとしているようです。私もま
た悲しさも、切なさも正面から対峙して乗り越えてやろうと思
っております。

急に広くなった家に帰ると胸が張り裂けそうになる事がありま
す。これからも続くでしょう。それでも、息子がつらくなった
時には安心して飛び込める父親になるためには堪えるしかあり
ません。当分は息子の前では泣けません。

「子供は親の杖だ」。誰の言葉か忘れましたが今しみじみと感じ
ております。弱い父親でも、挫けそうになった時には息子の存
在にしがみついて踏みとどまれる事ができそうです。

また長文になりました。でも溜まっていた事を吐き出したおか
げでしばらく頑張れそうです。

このスレ及び皆様に深く感謝します。

650 :威月 ◆KqZQ//HYDE :05/01/19 05:51:48 ID:l7flPOtp
9歳の時、お父さんが車を使い排ガス自殺した。
私はお父さんが遺書を書いていたところを見ていたのに、それと気付かず…

幼かった私はお父さんがうつ病だと知らずに、仕事を休んでいたのをズル休みだと言ったり、汚い言葉を吐いた。
でもお父さんは私を叱ることなく困ったように笑っていた。
「○○(名前)、お父さん体良くなったらステーキでもなんでも食べに連れていってやるぞ」
反抗期で機嫌が悪くなるとこう言って私の機嫌をなおしてくれた。

お母さんの作るレバニラ炒めが好きで、死ぬ少し前、夕飯の残りのレバニラ炒めを一人で泣きながら食べていた。
今思えば遺書といい、予兆はたくさん出ていたのに…
お父さん、ごめんね…私気付いてあげられなかった……。

今年6月、私はかなり年上の彼と結婚することになった。
お披露目もかねてお正月の挨拶に二人で実家に行った時、親戚のおばちゃんたちがくちぐちに
「利行(父)にそっくりな人だねぇ」
と。
…言われるまで気付かなかったよ…
思わずみんないるところで号泣してしまいました(´;ω;`)

お父さん、私あの人と幸せになるよ。
お父さんは私を絶対嫁に出さないって言ってたけどねf^_^;
でも、あの人は本当に私を大切にしてくれるから!
だからずっと見守っていて下さい…

695 :687 :05/01/29 02:45:44 ID:fiw2yBFJ
まず、俺の婚約に泣いて喜んでくれた友に感謝したい

11年も前になるが、俺には婚約者がいた
彼女は両親と姉を交通事故で亡くし、自身も聴覚と右腕に障害を負っていた
そんな境遇のせいか、俺と付き合っていた頃は暗くて泣いてばかりの記憶しかない
(彼女の同級生に昔の話を聞くと、明るい感じのイメージが残っているらしいが)

俺は当時、仕事がかなり忙しく、式の日取りとか決めなきゃなーと思いつつも
なかなか会えない日々が続いていた
たまにしか会えなかったが、会う度に嬉しそうな顔をする彼女が本当に愛しかった..

ある日彼女は失踪した

慌てて警察に届け出たが、対応は恐ろしく冷たかった
家族でない俺が届け出たことで、逆に疑われていたようだった
結局、今も彼女の行方は知れないままだ

失踪当初は警察への怒りで満ちていたが、時間が立つにつれ自己嫌悪にまみれていく
精神安定剤を飲んでいた事も知らなかった
いつも泣いていた彼女を支えられなかった

それからと言うもの、生活も荒み転職ばかりしていた
女性と付き合うのも怖いと感じるようになっていた
自分が許せなかったのもあるが、何よりも恋愛に傷つくのがとても恐ろしかった

あれから11年。友の叱咤激励に押され、ちょっとづつではあるが気持ちの整理がついたと思う
新しい彼女との婚約を友に報告すると、

「お前は色々苦労したからな、幸せになれ」

と泣いてくれた
なんでお前が泣いてるんだよ! と思ったが、もう涙でそいつの顔見えないや

なれと言われるまでもなく俺はもう幸せです。

あと、4年前と2年前に死んだ、お袋と親父に
「孫の顔見せられなくてごめん。でも俺なんか幸せかも」

712 :大人の名無しさん :05/02/02 18:46:14 ID:jWN7gCbd
俺が小3の時、ガンを患っていた母が亡くなった。
それから父は、俺と当時2歳だった妹の世話をすることになった。
慣れない家事と仕事の両立に父は懸命だった。
当然遊び盛りだった俺も否応なく、家の事を手伝わせられた。
なぜ母を奪ったのかと、ずっと己の不幸を呪い、この世に神様はいないと天を恨んだ。

やがて幼かった妹にも手がかからなくなり、俺は高校へ進んだ。
学費はバイトを始めることで何とかなった。

ところが妹も小学校の高学年に進み、胸が膨らみ始めた。
これまで恥を忍んで妹の下着を買って来た父も、ブラジャーなど買った
ことがあるはずもなく、途方にくれていた。
そんな時、俺にバイト先で知り合った彼女ができた。
事情を話すと、彼女は妹と一緒に下着を買いに行ったり、生理用品の事など、なにかと妹の面倒を見てくれた。

当初戸惑っていた妹も、やがて彼女を実の姉のように慕うようになった。
彼女が遊びに来て4人で食事をしていた時、母が死んで以来やめていた酒を父が久しぶりに飲んで酔っていたのをはっきり憶えている。
俺は亡くなった母が彼女と俺を引き合わせてくれたのかと、神様に深く感謝した。

母がいないことをのぞいて、やっと普通の家庭とはこんなものなのかと思える日々が訪れた。
そして社会人となった俺は彼女と結婚した。父と妹も、もちろん祝福してくれた。
父は定年退職したが、子会社のちょっとした役職で再雇用して貰えたと嬉しそうに話していた。

そんなある日、高校生になっていた妹が突然交通事故で死んだ。
葬式の数日後、父は会社に辞表を出し、俺は悲しみで何をする気力もなかった。

妻は父と俺のそんな気持ちを察してか、
妹の遺品を全て処分しようとして妹のタンスから
最初に買ってやったブラジャーを見つけて、泣き崩れた。

あの日から、俺は神も仏も信じられなくなった。

790 :大人の名無しさん :05/02/20 12:08:16 ID:GpnFoYJu
うちのかーちゃん 
おやじの酒乱で離婚 
以後3人の子を一人で育てる 

姉貴二人遠くに嫁ぐ 
俺とかーちゃん二人暮らし
かーちゃん 
酒を飲むようになる 
度を越すようになる
俺に怒られるから隠れて飲む。
友達から「電話したらお前のかーちゃんまたよぱらってたぞ」と言われ 
怒ってかーちゃんを蹴っ飛ばす 
「クソババー てめー電話出るなこの!!」
「お母さん飲んでないよ」
ろれつが回らない言葉で俺に許しを乞う 
それを聞いてまたかーちゃんの頭を思い切りひっぱたく

そんな日が続いた

結婚が決まった 
嫁と2人きりで海外で挙げた。
かーちゃんには式の写真とビデオをやっただけ 
嫁にも極力合わせないよーにしてた 

別々に暮らして半年 
ある日夜遅く保険の証書を取りに実家に帰ると真っ暗な部屋の中 
テレビのあかりだけ 
その前にかーちゃんがボーッと正座していた 
「こんな夜中に何やってんのよ
 またさけ飲んでるのかこの野郎っ」
叩こうと思ってふとテレビを見ると 
俺の挙式のビデオだった   

「叩かないで
 ごめんね
 ごめんね」
  
ろれつが回らない言葉で這いつくばって懇願するかーちゃん 
俺はぼーぜんとした

毎晩一人ぼっちでこのビデオを見てたのか・・・
ごめんねお母さん 
本当にごめん。もう叩かないから
来週嫁さんと一緒にどっかおいしいものでも食べに行こうよ。

昨日の晩 
母と嫁と食事してきました。

「嫁さんが母さんとメシ一緒に食べたいんだってさ」

って言ったら喜んでた。自分がビール飲みながら
「母さんも1杯どう?」
て言ったら
「私はいいから」

って・・無理すんなよな 
嫁に嫌われたくないのだろうか

一生懸命嫁に俺のこと頼むって 
優しい子だからって 
親バカだなー

嫁さんニコニコして頷きながら聞いてた。
母さん嬉しそうだった。

896 :大人の名無しさん :05/03/08 10:32:35 ID:B2ZTecn2
小学校入学を控えた長男のもとに、新しい学習机が届いた。
無邪気に喜ぶ長男は同じ歳で白血病になり天国に行ってしまった実弟と
同じ笑顔をしていた。

涙が止まらなかった。わあわあ声上げて泣いた。

897 :大人の名無しさん :05/03/08 12:05:52 ID:x/fgHAEW

896
あなたは女性(姉の立場)ということでよろしいのでしょうか。
いえ私も姉&弟の構成なので…
もし自分だったらどうだろうと我が身を重ねてしまいました。

あなたの弟さんを思う涙とお気持ちはきっと天まで届いていますよ。

898 :896 :05/03/08 17:30:04 ID:B2ZTecn2

897さん
レスありがとうございます。恥ずかしながら、また泣けてしまいました。
私は姉の立場になります。
といっても、6年しかねーちゃんやらせてもらえなかったんですけどね……。

弟とは年子なので1歳違ってたんです。私は弟のことが大好きでした。
入院したのは小学校入学して最初の夏休みからでした。
母からは「長い風邪だ」と聞いてたんで、すぐ治ると思ってましたが
よく考えれば母はもうその時に病状を知っていたんでしょうね。

入院中に母に買ってもらったアニメのまくらを、弟は
「これねーちゃんが好きだから、ねーちゃんにあげて」って言ったらしいんです。
まくらをもらったとき、私は弟に
「お返しに退院したら大好きな超合金のおもちゃをおこづかいで買っちゃるね」
って約束していたんです。弟はとても喜んでいました。
でもその約束は果たせませんでした。退院したらじゃなくて、すぐ買えば良かったです。
当時小学2年生の私は「入院しても必ず退院できるもの」と思ってましたから……。

来週にはランドセルが届きます。その時また泣くんでしょうね。
だって息子…… 弟にすごい顔が似てるんですもの。

899 :大人の名無しさん :05/03/08 17:34:46 ID:3RHg1b5M

898
ねーちゃん大好きだから生まれ変わったんだよ。
今度は楽しい思い出いっぱいいっぱい作ろうね!

900 :896 :05/03/08 17:46:01 ID:B2ZTecn2

899さん
ありがとうございます。勿論、息子達(2人いますが)とは
弟の分まで精一杯幸せになってほしいし、楽しい思い出を
家族で作ろうと思ってます。

あと…… 母にも一杯親孝行したいです。
今になって、看病してる母がどれだけ辛い思いでいたか分かったような気がします。
以前
「○○と××(長男と次男)に遊べるおもちゃいっぱい段ボールにしまってるけど、
なかなか開けられんのよね」

といったときの、寂しそうな表情が忘れられないんです。

853 :大人の名無しさん :05/03/03 04:25:59 ID:6n38f9/C
今日のチラシは両面印刷なので書かせてくれ。

俺が種無しだとわかったと伝えたら、絞り出すように、
自分を励ますように「二人の生活もあるかもね」と言ったよね。
俺はとてもショックだった。俺は自分が好きな女を失望させる
存在だって知らなかった。勿論君も言ってたとおり子供が
いなくても幸せな生活をしている夫婦は沢山いるだろう。
その努力は惜しむつもりはなかった。でもあの時の顔が忘れられない。
俺は自分の負い目を負わせたくなかった。

つまらないすれ違いで別れたと思っているだろ。でもあれは俺の
シナリオ通りなんだ。好きな女が幸せになれれば俺も幸せになれると
思っていた。そして幸せにしたかった。俺では君を幸せに出来ないと
悟ったんだ。

結婚おめでとう。幸せになって下さい。

488 :大人の名無しさん :04/12/08 23:30:20 ID:BivWkycB
32歳♂です。
2年前に独立したが一人で仕事を進めていくのはなかなか大変で、
毎晩家に帰るのは夜11時以降。休みも接待やらなんやらで殆ど外出。
半年振りに昼過ぎに家に帰ったら、4歳になる娘が「今日は私がごはん
作ってあげる!」とおおはしゃぎ。
妻と娘が作ってくれたのはオムレツ。ケチャップでうさぎの絵が書いて
あった。
「おぉ、うまそうだな!」と言いつつ、一口食べた瞬間、娘が泣き出した。
俺はてっきり、ケチャップのウサギの絵を崩してしまったからだと思い、
娘に「ゴメンね」と言ったら、彼女は首を横にふりながら

「お母さんの手伝いをしてる間に料理が作れるようになった。いつもパパに
食べてもらおうと思ってたけど、パパはいつもおうちにいなくて、料理を
作ってあげられなかった。やっとパパに私の料理を食べてもらえた」

と言って泣き続けた。娘の優しさに、俺も妻も涙が止まらなくなった。
仕事のためと言いつつ、娘に寂しい思いをさせ続けた俺自身がはずかしい。
これからはもっともっと娘のそばにいてやろう。

524 :大人の名無しさん :04/12/12 16:09:18 ID:upnwVNR/
先週土曜日に友達のお産に立ち合ったよ。
旦那さんが出張から戻ってなくて、予定外の事だったんだけど、誰も間に合わないし。
緑のキャップかぶって緑の割烹着みたいなの着て、分娩室に付き添った。
本人の希望とは言っても一寸腰が引けた。正直怖いとまで感じた。
でも産まれたら何でか友達と手を握り合って泣いちゃったよ。
自分のときは痛くてあまり記憶無いけど、ドラマとは違うんだね実際は。
三十ン年生きてて、他人のお産に立ち合ったの初めてだったけど、良い経験でした。
でも、赤ん坊よりも自分達の方が大声で泣いたのは、旦那さんには秘密。

548 :大人の名無しさん :04/12/16 17:09:14 ID:fZidQjdT
デートの終わりにいつも「今日の教訓は?」と聞いて
「ご飯はおいしいところで食べる」とかたわいもないことを言ってた

ドライブ中ラジオから流れてくるのはヒットチャート
無口な二人
6年以上付き合っていた人と別れました
子供を作れない体、将来への不安、その他諸々…

苦労ばかりかけてしまったが本当に大切な人だった
悲しいけれど感謝している
あの人にははやくいい人が見つかって子供が授かるように切に願う

別れ際に抱きしめて耳元で「この恋愛の教訓は?」と囁いて
お互い泣いてしまった

641 :大人の名無しさん :05/01/17 02:13:17 ID:tP3JHHmk
今日娘に会った。3年前に離婚した女房に引き取られてから2,3ヶ月に
一度しか会えない。今年になってからは初めてだった。
娘は俺が準備したプレゼントを眺めながら「今日早く帰ってもいい?」と
聞いてきた。

どうやら俺は悪い奴だからあまり一緒にいるのは良くないと女房が
言ってるらしい。「パパも心配するし」と女房の再婚相手も何か
吹き込んでいるらしい。

俺の人生は何だったんだろうと思う。

生活のために必死に働き、でもどんなに眠くても毎日家族の時間を設けてきた
つもりだった。その挙句が浮気され娘にとって危険な人間とされている。
「100%自分が悪い」と俺に言った台詞はなんだったのだろう。

俺なりに人の痛みを分る人間になって欲しいと躾けたつもりだが、
娘はすっかり忘れているようだ。裕福ではない同級生の悪口を言う娘をみて
気分が悪くなった。

娘には俺のために会ってもらう必要はないと伝えた。
もう奴らの事は忘れようと思う。何もかも馬鹿馬鹿しくなった。
自嘲するしかなさそうだ。

643 :大人の名無しさん :05/01/17 09:49:08 ID:crxLUzZi

641
私も小さい時に母親に引き取られ、再婚はしてないけど母や親戚から“父親は極悪人”とされて育った。
確かに父はあなたのような良いお父さんではなかった、それでも私は父が大好きだった。
しかし父を父とも思うことも許されず、感情表現を禁じられて、
数少ない再会の場面も母の監視つきで、父にはとてもひどい事を言ったし、したと思う。
極悪人の子供の自分は悪い子なんだ、と悩んだこともあった。
大人になってから離婚は父だけが悪い訳ではなかった事を知り、余計に申し訳なく思った。

もしかしたらあなたの娘さんにもそういう気持ちもあるかも知れない。
多少立場が違うから分からないけど、娘の立場から。
私は父にもう会えないけど、今もし会えるなら「お父さんごめんね、大好きだよ」と言いたいよ。

768 :大人の名無しさん :05/02/17 00:16:34 ID:D/ezUwEj
お袋が家出して、3年後。
消息がわかったので、そのアパートに踏み込んだ。
朝の9時頃だったけどまだお袋は寝てた。
俺が来るような予感はしてたみたいで、
開口一番「朝ご飯まだなんやろ、今ちゃっと作るから。」
って淡々とメシ作りはじめた。
ウインナー、卵焼き、味噌汁、ご飯がテーブルに置かれる。
最後に置いたのはサラダ菜とアルファルファのサラダ。
そう、ウチのお袋はサラダ菜を出すんだ。
キャベツやレタスじゃなくてサラダ菜。
懐かしくて胸が一杯になって泣いた。
5分ぐらい声出して泣いた。

875 :大人の名無しさん :05/03/05 21:56:18 ID:9RH0PU5h
世間では一流と言われる大学に進学した。
特別裕福な家じゃない。本来なら卒業後就職して親に恩を返すのが筋だろう。
だが、俺は両親に甘えて、研究者になるという夢をかなえるべく、その筋では知られた研究室に進んだ。
自分の過ちに気付いたのはつい最近。それなりに能力に恵まれてるのに甘えて、研究者というのは本当に夢だったのか、自分が何をやりたいか、何をすべきか真剣に考えたことがないのに気付いた。
頭が痛くなるくらい考えてやっと道を見出せた気がした。その道に進むためにはまだ年月がかかることを実感した。
けれど両親ももう年だ。我侭は言えない。就職するつもりで相談した。
親父は
「気にするな。お前がやりたいことをやって幸せならそれでいい。財産は残せないが、人生の目的と教養を残してやる」
と言ってくれた。

数年ぶりに号泣した。思い出しただけで涙腺が緩む。
有難う。

569 :大人の名無しさん :04/12/26 09:59:28 ID:yEbttmvy
昨日は、来年中学生になる息子の誕生日。
ささやかなプレゼントとケーキでお祝いしたよ。

「ぼくを生んでくれて、元気に育ててくれてありがとう」
だって。

夫婦で嗚咽して、パーティーを台無しにしてしまったよ。

おまえこそ、生まれてくれて、元気に育ってくれて
ありがとうな。

72 :大人の名無しさん :2005/05/06(金) 22:16:52 ID:LnlvNSVj
いやまあ、オヤジが死んだのは別に悲しくなかったさ。 葬式でも泣かなかったし。
変なところが癌になって、治しようがないからって放っておいたぐらいだし。
死ぬ直前まで、いや、死んでからも色々迷惑かけられてるし、もうすぐ40代板に
行かなきゃ行けないふがいない息子でお袋に迷惑かけまくってるから悲しんでられない。

オヤジに苦労かけ続けさせられてきたお袋にはラクさせたい。 TVで温泉特集とか
やってると「行きたいわねえ」って時々つぶやいてる。 ごめんな。 甲斐性無しの息子で。
孫の顔どころか嫁の顔すらまだ分からんぐらいで。 こんな年なのにな。
モテないし、女、苦手だし。

旅行連れて行ってやりたいけど、オヤジの残した莫大な借金と借金まみれの会社
切り盛りするだけで精一杯なんだわ、オレ。 GWも明日も明後日も仕事で、その
次の連休もその先も全部仕事で。 チケット渡して「ホラ、行って来なよ」なんて
かっこいことしたいけど、そんな金も無い。 あんまりオレとお袋が不憫で、嫁に行った
姉ちゃんの旦那さんにまで気を遣わしちゃって、その上、シャレにならん額の金まで
貸して貰うことになっちゃって、申し訳なくて旅行なんて行く気分にもなれないし。

元々オレが経営してた会社の金までオヤジの会社につぎ込んじゃって、社員のみんな
ごめんな。 みんなが稼いだ金なのに、気の毒がってオレに文句も言えないよな。
でも、なんとか単月黒字が出てきそうなんだわ。 お袋、もう少しだけ待っててくれよ。

どうしようもなくて、ふと思いついて、仕事先でバイクに行く途中、絶対不安だからって
フルフェイスのヘルメットしか被ったことなかったけど、半キャップのヘルメット買ったよ。
事故ったらヤヴァいのは分かってる。 でも買わざるを得ない気分だったんだよ。

ゴーグルしないで60km/hばかり出したらさ、向かい風で涙がいっぱい出たよ。

346 :大人の名無しさん :2005/08/18(木) 23:59:02 ID:FKax04xe
進行した胃癌が見つかり、医者曰く「持って1年」だとさ。

帰りの駅のホームで「どうして俺が」って考えてたら涙が止まらなかった。

153 :72 :2005/06/25(土) 15:56:17 ID:BKGMK0uj
もうここに書き込まないようにするって書いたけどさ。 すまん。

前々からめまいがするんだが、先月、あまりにひどいめまいがするんで、でかい病院の
耳鼻科行って検査してもらったんだ。 念のため頭のMRI検査受けたんだ。

んで、耳鼻科の先生がMRIの写真見ながら診断して、「専門外だからよく判らないけど、
まあ大丈夫じゃないの?」って薬くれて、それで治っちゃったんだ。
それ以来はめまいもあんまりしなくなったし。 仕事忙しいからめまいするんだろうな、と。

で、その間に借金の返済で親が住んでたマンションの部屋売って、俺のマンションの部屋に
同居する準備とか忙しかったんだよ。 ただでさえ二つの会社見てて忙しくて、毎日深夜に
帰宅してから荷物の整理とかしてて、すっかりそんなことがあったの忘れてたんだよ。
そしたら、姉ちゃんまで手伝いに来てくれたりしてバタバタ忙しくしてた所に病院から連絡が
来て、診断結果聞きに来いって。 母さんが心配しないように病院行ったのに、母さんが電話
取っちゃって、ちょっとモメたさ。                 なんで今頃…。 親バレ…orz

母さんの引越しもようやくひと段落して、病院に行ったらさ、件の先生、またMRIの写真引っ張り
出してきて、「専門医に見てもらったら、ここになんか影が映っちゃってるのよ」だって。
右大脳の内側にかなりでかいのがへばりついてたさ。 あのさ、こんなでかい影、よく見落とせ
たよなってぐらいの。 「ははあ、映ってますねえ。」なんてこっちもマヌケなこと言ったりして。

「もっと正確に撮りなおさないと診断確定できないから、造影剤点滴打ちながらもう一回MRI
検査受けてね。 薬の副作用で0.04%の人が呼吸困難で意識不明になるけど。」だって。

意識不明の誓約書に署名して、来週、検査受けてきますよ。 なんでもないといいなあ。

まあ、しょうがないから、姉ちゃんにだけは事情を携帯にメールしたさ。
「話がでかくなって、診断してなんでもなかったら鬱陶しいから他の人には黙っててね。
 特に母さんにだけは内緒だよ」って。
そしたら、姉ちゃん、パートの真っ最中のはずなんだがすぐに返信が来たよ。

「なんでもないことを祈ってます」だって。

なんか、ちょっと疲れてしまいましたよ。 39歳のおじさんは。

392 :346 :2005/08/27(土) 01:51:16 ID:QJumVh24
今日実家に行って親父に話してきたよ。癌の事、余命1年って言われた事。
ウチはお袋も5年前に胃癌でなくしてるから、親父はやっぱりショックだったらしい。
まさか息子が自分より先に逝くなんて考えてなかっただろうし。
そう考えると、滅茶苦茶親不孝してるんだなって思って凹んだ。
ただ帰り際に親父が黙って手を出してきたんで、握手してきたよ。
年取った親父のどこにこんな力があるのかって程強く握られた。
嬉しくて、悔しくて、申し訳なくてまた泣けちゃったよ。

嫁さんとも話したけど、最後まで足掻いてみる。
やっぱ生きていたいから。
子供に「お前の親父は最後まで諦めなかったぞ」って残してやりたい。
だから足掻いてみる。

617 :大人の名無しさん :2005/10/09(日) 21:50:52 ID:0q9No649
なあ、誰にも分かってもらいたくないけどさ。 オレが誰かも分かってもらいたくないんだ。
ただ、気にかけてくれてる人がいるかもなぁって思って。 うん、事後報告。
今年の春に、ちょろっと書き込んだんだけどさ。

今年の初め、親父が死んで、引き継いだ潰れかけの工場は幸いまだ生き残ってる。
自分がやってた会社を共同経営者に譲って、その流れでこの半年、無理やり営業した
でかい仕事が10以上あって、そのうちひとつ二つが決まりそうだよ。
でも、その間にリストラして社員を2/3に減らした。

引導渡した高齢社員、パート社員達には申し訳なく思ってる。 残った社員も、給料を
2割がたカットした。 それでようやく事業計画トントンだ。 正直、まだ若干マイナス。
みんな不満だらけだろうなあ。 でも社長になったオレに文句言わないので泣けてくる。
単月黒字はなんとか出せるようになったよ。 年末にボーナス出せるようがんばるよ。

今までなあなあでやってた工場で、財務管理始めた、毎朝朝礼始めた。 全体ミーティング
始めた、社内の業務改革始めた、PC導入して社外データの解析補助始めた、ギブアンド
テイクでワーキングネットワーク組み始めた、新規開拓も結果がじわじわ出てきた、余剰
スペースでのワークシェアリングを来月から始めることで転貸家賃収入も入ってくるぞ。

618 :大人の名無しさん :2005/10/09(日) 21:57:34 ID:0q9No649
親父が残した負の遺産が少しずついいほうに向き始めてるよ。 このままやってけば
たぶんなんとかなる。 いや、死んでも何とかしてみせるよ。 滞納税は相変わらずだけど
借金はほぼ整理つけたよ。
お取引先の担当者から、死んだ親父の話をよく聞く。 みんないい親父だったって言って
くれる。 家族には最低な親父だったけど、いいところもあったのだろう。
ダメ親父を全否定しない。 少しでもいいところがあったみたいだから、それは財産だ。

代わりに、おれがやってた会社が傾き始めた。 共同経営者も強がり言ってるが弱気発言も
してくる。 でも、そのオレの会社の社員達が何も言わずに親父の残した赤字工場に資金援助
してくれたんだ。 恩返しだ。 オレが死のうとも、そっちもなんとか今年も黒字で終わらせてやる。

うわはははは。 かっこつけすぎだな。 オレ。

頭痛は頭の左側がひどい。 最近、記憶も甘くなってる。 1分前のことが分かんなくなることも
あるよ。 でも、なんとかなる。 きっと何とかしてみせるよ。
見ててくれよお袋。 あんたの息子であることが恥ずかしくないよう、もう少しだけがんばるよ。

619 :大人の名無しさん :2005/10/09(日) 22:53:49 ID:dxVQRY7b

617

かっこいいよ
前向いて、頑張ってるあんたはかっこいい
オレも頑張らなきゃいけないことあるんだ
あんたに比べたらちっぽけで、鼻で笑われそうなことだけどさ
背負ってるモノがあんたの方が全然大きいし、
オレがこんなこと言うのおこがましいんだけどさ

お互い頑張ろうぜ!
体に気をつけてな!

624 :617 :2005/10/10(月) 15:15:44 ID:5Y1+F25O
みんな、心配してくれてありがとう。

頭の方はあれこれあるけど、とりあえず悪性腫瘍とかじゃなくて、この先の進行は
無いだろうって診断出た。 姉ちゃんに報告したらすごく喜んでた。
ここでオレのために祈ってくれた人達にもお礼言わせてください。

本当にありがとう。

眩暈とか頭痛とかは薬貰ってるし、日常生活なら我慢できてるよ。 まだ死ねないし。
かわりに、一時援助してくれた姉夫婦の方が大変だ。

働いてたパート先が大リストラでもうすぐ職場が無くなる。 再生機構に入ってる
大きな某小売業チェーンだからしょうがないけど。 おなじ境遇の人達が全国で
同時に何百人も出るんだし。
オレより数倍できる人間だから、パートぐらいならたぶんどこでも採用になるよ。

義兄も病気が見つかって来週手術。 まあ、こちらも本当だったら機械使って
治療できる病気がちょっと性質悪くてする手術。 命にかかわる程の手術じゃない。
「こっちのことは安心しててね。」って姉ちゃん言うけど、でもたぶん、今は姉ちゃんの方が
辛いはず。 お金の面じゃ全然助けられないけど、精神的なことなら頼ってほしいよ。

ここで気持ちを吐き出させて貰ってすごくラクになった。 正直助かったよ。
まだまだ全てのことに油断できないけど、ありがとう。
でもいつか、辛い思いをしてここに来る人達にオレが何かしてあげられたらいいなあ。

627 :大人の名無しさん :2005/10/11(火) 23:33:04 ID:LQIcOvwX
8月に余命1年と診断されたと書き込んだ346です。

取り敢えずセカンドオピニオンは取ったけど、結果は同じでした。
1回目の時よりはショックは少なかったかな。結果を聞いた時は。
まあショックはショックなんだけどね。

ただ気落ちしてばかりだと、1年がどんどん短くなっちゃうだろうから、色々足掻いてみるよ。
俺も嫁さんも泣くだけ泣いたしね。
子供や嫁さんの為にも、色々と応援してくれる周りの皆の為にも、少しでも長く生きてやるって思ってる。
ここでも色々応援してもらったのも、凄く力になってるよ。
ホント有難う。

617
でもいつか、辛い思いをしてここに来る人達にオレが何かしてあげられたらいいなあ。
貴方の書き込みに元気を貰った人間が、少なくともここに一人居ます。
こんな事言うのはおこがましいかもしれないけど、俺も頑張るから貴方も頑張って下さい。

625 :大人の名無しさん :2005/10/10(月) 23:17:41 ID:46ixI3by
>でもいつか、辛い思いをしてここに来る人達に
>オレが何かしてあげられたらいいなあ。

↑この答は「俺も頑張る」と言ってる

619あたりにあると思うんだがどうだろう

あなたが今も頑張って生きていて
このスレを忘れずに書き込んでくれる、
それだけで「自分も頑張ろう、恥ずかしくない人間になろう」
そう思う人がたくさんいるはず。

あなたの姿が全ての答だ。
あとは自分の身体を第一に、どうぞお大事にね。
またこのスレで、そしてどこかのスレで会いましょう。
末永いご活躍をお祈りしております。

917 :346 :2005/11/01(火) 23:47:09 ID:7kdaUJWo
体調悪し、明日入院。
何が余命1年だ、こんちくしょう。半年もたねぇじゃねぇか。

みんな色々ありがとう。俺の分も元気で生きてくれ。
って、押し付けちゃいけねえな。

とりあえず流れ読まずに書いてる。気に障ったら許してくれ。
もし今自分から死ぬ事考えてる奴がいたら、もう一回考えてくれ。
なんで生きていられないのか。
お前が死んで悲しむ奴がいないのか。
頼むから自分の命を無駄にしないでくれ。

30代、頑張れ!

多分これでさよならだ。

みんな、元気で生きてくれな。
辛いことあったって、そんなもん時間が過ぎれば笑い話だ。
ファイトだぞ。

死にたくねぇよ。
でも、多分駄目だな。

あー、なにかいてんだか解らねぇ。

ともかくここは俺にとって元気をもらえる場所だった。
ありがとう、本当にありがとう。
そしてさよなら。

最後に2ちゃんに書いてる俺、馬鹿だよな。

921 :大人の名無しさん :2005/11/02(水) 00:27:56 ID:O4ZjpU1m

917
もう見てないだろうけどひとこと。

 「今生きている者は、
  生きられなかった者たちの想いを引き受けて生き続ける義務がある」

が俺の持論。

このスレの人間なら、あんたが生きるはずだった人生も生きてみせるさ。

あんたも、わずかでもいい。
あがいてあがいて、生きてくれ。
最後のその時まで。

あんたの願いは確かに受け取った。

922 :大人の名無しさん :2005/11/02(水) 01:38:34 ID:9uCo+zmA

917
このスレはあなたの人生に少しでも役立ったかな?
私はあなたのレスが今後の人生に役立つことになるだろうと思う。
あなたの言葉。肝に命じます。

でも…。願わくば少しでもいいから粘ってください。

923 :大人の名無しさん :2005/11/02(水) 03:41:43 ID:TScZZli+
馬鹿じゃないよ。
書き込んでくれてありがとう。
あなたの言葉、しっかり受け取りました。忘れないで生きてく。

あなたのこれからの日々が、どうか一日も長く続きますように。
少しでも楽に、笑顔でいられる日々でありますように。

924 :大人の名無しさん :2005/11/02(水) 03:59:28 ID:B3yldvrj
すべての人間は無意識でつながってるって
どこかで聞いたことがある。
でもって人間は脳を3割しか使ってないらしい。

だから本気で祈ったら
残ってる7割がよくわからんパワー発動して
無意識通じて>>917に届いちゃったりしないかなと。
まあ、ものは試しだ。

元 気 に な れ !!!

925 :大人の名無しさん :2005/11/02(水) 04:09:33 ID:YhzN8rbB

917
みんなが言うように、おまいは俺達の中で生きているし、
おまいの中に俺達がいることを忘れないでください。

2chとは見えない繋がりが一瞬だけ見えそうになる場所だと思っています。

あと半年しかないのなら、半年で50年分生きてみろってんだ!
がんがれ(泣)。がんがれな。

926 :大人の名無しさん :2005/11/02(水) 07:59:51 ID:PRPW23E0

917
書いてくれてありがとう。
おまいに奇跡があるように、祈ってる!

がんがれ、がんがってくれ!俺もがんがる!おまいのために祈るぞ!

928 :大人の名無しさん :2005/11/02(水) 08:40:11 ID:aa2A5LT9

917
わたしも願う。
生きろ 生きろ 生きろ 生きろ!
頑張ってる人に頑張れって言葉は酷だけど。わかってるけど。
がんばれと願う。
最後なんて言わないで。
みんな覚えてるから。
だから生きろ! がんがれ!

929 :大人の名無しさん :2005/11/02(水) 08:49:23 ID:kqhuLKFu

917
がんばれ!がんばれ!がんばれ!!
また会えるよ。待ってるから!

931 :大人の名無しさん :2005/11/02(水) 12:33:38 ID:Qk6ZzdNS

917
最後に2ちゃんに書いてる俺、馬鹿だよな。
ああ、お前は馬鹿だ。大馬鹿だよ。

お前、最後まで足掻くって言ってたじゃないか。
4歳の子供に「お前の親父は最後まで諦めなかったぞ」って残すんじゃなかったのかよ。
なのに諦めてどうするんだよ。

俺は詳しい状況は判らない。何せ画面のこっち側にしかいないからな。
でもさ、応援してるんだよ。
多分俺だけじゃない。このスレにいる沢山の人が応援してるんだよ。
足掻けよ。入院しても足掻き続けろよ。頼むから足掻いてくれよ。
諦めたらそれで終わりなんだぞ。

絶対に戻って来い。
何があっても絶対に戻って来い。いいな!
俺は待ってるからな。絶対に戻ってくるんだぞ。
「最後」なんて言葉、信じないからな。

944 :大人の名無しさん :2005/11/04(金) 16:30:25 ID:AgfS/lO7
私も祈る。
子供と奥さんのために生きて欲しい。
自分のためだけなら出来ないことも
自分以外の人のためなら出来ることもあるでしょう。
辛いこともあるけど、
生まれたからには最後の最後までもがいて生に執着してほしい。
生きてるだけで、その存在だけでも
必ず幸福に感じてくれる人はいます。
もがいてください。

14 :大人の名無しさん :2005/11/13(日) 02:40:11 ID:uqAmJsqL
917さん
最後まで諦めないで
顔も知らないあなただけど生きて欲しい
生き抜いてほしい
私も頑張って生きるから
またここにレスしてね
待っているからね

249 :大人の名無しさん :2005/12/16(金) 20:55:07 ID:YeaWI5Ka
あの人が亡くなって約1ヶ月が経ち、少しずつですが落ち着いてきました。

痛みに顔を歪める姿に家族が痛み止めを使う事を勧めても、
「痛みが解るから生きてるんだ。それが解らなくなったら終わりだろ」
と言って、痛み止めを拒否し続けた彼。

私や子供の為に、そして皆と約束したからと言って、
必死に生きようと頑張った彼。

私は、癌という病気に対して最後まで向かい合い、
必死に戦い続けた彼を誇りに思います。

前スレ917ですが、去る11月14日午前4時28分に永眠いたしました。享年37でした。

生前の彼が、このスレに書込みをしていた事は知りませんでした。
夫婦揃って2ちゃんを楽しんでいたとは言え、
お互いがどんなスレに書き込んでいるかなんて解らないものですね。

最後の入院中、彼が言った言葉がありました。

「2ちゃんで元気を貰う事もあるんだぞ。だからお返ししなきゃな」と。

その時は何を言っているんだか解りませんでしたが、
亡くなってから彼のPCを確認している時、
ここに書き込んでいた事を知りました。

沢山の励ましを有難うございました。
皆さんのお気持ちは、間違いなく彼に届いていたと思います。
そしてご報告が遅くなり、申し訳ありませんでした。

210 :大人の名無しさん :2007/05/21(月) 18:53:21 ID:O3lezlPf
私のお母さん(57歳)は末期ガンで先日入院しました。
あと半年の命だと言われました。

「手術出来ない」と言われて8年。
ずっと自宅療養で薬の副作用に耐えながら生活してきました。
本当に良く頑張りました。
だけど、とうとう体力が無くなり入院となりました。

入院当日、迎えに行った私に
「今日は長くなりそうだし、あんた腹減るやろ?」
と、アルミホイルに包んだお手製のオニギリを私にくれました。

お母さんはもう食べられないのに。
味覚が麻痺してるのに。
水も飲めないのに。
支えが無いと歩けない状態なのに。

私の為に。

美味しかったよ。
私はあなたを一生追い越せないよ。
お母さん。

630 :大人の名無しさん :2008/02/17(日) 17:10:29 ID:ZSSPxJGD
会社で、私の隣の席の男性が突然死してしまった。
金曜日お酒飲んで、電車で気分悪くなって、
途中下車して駅のベンチで座ったまま亡くなってしまった。
死因はスカッシュをやって亡くなった宮様と同じもの。享年55歳。

でもみんな、分かっていた。
この人仕事のし過ぎで亡くなったんだって。

私はそのとき祖母の納骨で地方にいた。
お通夜は出れなかったが、その日のうちに東京戻って、翌日は休みの予定だったけど、会社行った。
上司に言われて花を買いに行った。

「社員の人が亡くなったので、机に飾るお花にしてください」

花屋さんで、泣いた。こんなことは初めてだった。
綺麗だがとても香りの強い花で、今でも私はその香りを嗅ぐと涙が出る。

亡くなった時に持っていたカバンには、家で仕事をするための膨大な資料、
会社のPCにはやりかけの仕事が山のように入っていた。
とりあえず私を含めた三人で割ったが、それでも追いつかない。
仕事の中にはとても単純だけど、時間のかかる作業とかいっぱいあった。

何度か言ったことはある。
やることあったら言ってくださいね、と。
その人は穏やかに笑って、じゃあ考えておくね、と。
いつもこの繰り返し。

膨大なデータを集計しながらまた涙。
なんでもっと強く言って、仕事をぶん取らなかったんだろう。
私がこうした単純作業だけでも引き受けていたら、
この人は死なずに済んだじゃないだろうかと後悔ばかり。

631 :大人の名無しさん :2008/02/17(日) 17:12:25 ID:ZSSPxJGD
そんな中、その人の家族が荷物を引き取りに来た。
小柄で華奢な奥さんと、真面目そうな女子大生。一人一人に丁寧に挨拶。

私の番になった。奥さん、私の名札を見て小さく笑う。

「何度か主人から聞いていました。
 職場にとても真面目で優秀な女性がいて、
 いつも仕事ないですか、何でも言ってくださいね、
 って言ってくれるんだ、って。
 あなたのことですね。
 主人はとても感謝していましたよ」

会社だし、他の部の人もいるし、とかそんなこと関係なく泣き崩れた。
ありがとう。私のことそんな風に思ってくれてありがとうって思った。

早いものでもう来月は三回忌。

私はそのとき以来、部員の仕事量も観察して、一人の負担にならないように
自分に出来る仕事はぶん取ったりすることもある。

この間、亡くなった男性の仕事を引き継いだ男性から言われた。

「もしあなたがいなかったら、
 俺は仕事に追い詰められて死んでたかもしれない。
 笑い話じゃなく、本当に。
 だから、ありがとう」

その言葉で、やっと救われたと思った。

377 :大人の名無しさん :2007/09/13(木) 16:22:23 ID:6/KfV8za
2年前にHIVに感染しているのを知った。
自業自得だと思った。
ただ地元にいては色々不都合があるため一人で他の町へ行った。
死にたい、と思っていたが死ぬことはできず、
治療も受けないまま現在に至っている。
友達に会うと「大丈夫、大丈夫」と笑顔で答える。
大丈夫なんかじゃないけど、
深刻な顔をして友達が困るのを見たくないから。

先日、青空の下で親友とビールを飲んだ。
俺はずっと親友だと思っていたが、
その時俺たちが親友だということを初めて口にして話し合った。
「生きていて欲しい」
と親友が泣きながら俺に言った。
俺も全然大丈夫ではない、死にたいとずっと思っていることを伝えた。
二人で周りに人がいることもお構いなしに泣いた。

生きたいと初めて思った。

597 :大人の名無しさん :2008/01/27(日) 18:57:02 ID:JwHC6Bhu
どこにかいたらいいかわからんからちょっと書かせてくれ
昨日4時22分に母が亡くなった
風邪一つ引かない元気な母だった。

僕が幼稚園に入るころもう父はいなかった。
借金作って逃げたらしい。
朝は4時に起きて俺らの弁当作って6時から17時まで弁当屋でパート。
帰ってきたら晩飯作ってすぐに出て行って11時までパチンコ屋で掃除のバイト。
休むのは月に3回あればいいほう。
そうやって僕と妹は育てられた。

反抗期なんてほぼ無かった。
あんなに頑張る母親を見て反抗なんてできるはず無かった。

いや・・・一度だけあった。

クリスマスの2,3日前ゲームボーイが欲しいとねだった。
友達がみんなゲームを持っていたのに自分だけ持ってないと苛められると。
何故あんな嘘をついたのだろう・・・。

母は「ごめんね・・・」と顔をくしゃくしゃにして泣いた。
僕も何故か悲しくなって家族3人でボロボロ泣いた。
その日は3人とも同じ布団で抱き合って寝た。

クリスマスの日の夕食はおでんとケーキだった。
母親は子供のようにはしゃぎ、歌い、最後に「はい」とプレゼントを渡した。
古いゲームソフトだけを買ってきた。
「これだけじゃできないんだよ」と言おうとしたけどうれしそうな母の顔を見ていえなかった。

598 :大人の名無しさん :2008/01/27(日) 18:58:34 ID:JwHC6Bhu
あれから20年、兄妹そろって大学まで出してくれた。

俺も妹ももう就職したしこれからは楽させてあげるから仕事やめなよ。っていったのに。
働いてなきゃボケるって・・・そんな年じゃないだろう。
どっか3人で旅行にいこうよっていってたのに。
妹の結婚式みるまでは死ねないっていってたのに。

なんで末期癌になるまで働くんだよ・・・。
何度も病院いこうって言ったじゃないか。
先生もいってた「あんなに我慢強い人見たこと無い」って。
看護婦さんに「迷惑かけてごめんね」ばっかり言ってたんだってな。
いっつも人のことばっかり気にして・・・。

震える手で書いた枕もとの手紙・・・読んだよ

「耕ちゃんへ
 小さいころはいつもお手伝いありがとう
 あなたはわがままをひとつも言わないやさしい子でした
 妹の面倒も沢山見てくれてありがとう
 あなたが生まれてきてくれてほんとうにうれしかったよ
 あなたのお嫁さんを見たかった

 梓へ
 女の子なのにおしゃれをさせてあげられなくてごめんね
 いつも帰ったら「ぎゅっとして」といってくるあなたに何度私は救われたかわかりません
 あなたはあなたを愛する人を見つけなさい
 そしてその人のために生きなさい

599 :大人の名無しさん :2008/01/27(日) 18:58:54 ID:JwHC6Bhu
 死は誰にでも訪れるものです。
 悲しまないで
 あなたがもし辛いことがあったらいつでもあなたの枕元に立ちますよ なんてね

 あなた達の母親で良かった
 また生まれ変わってもあなた達の母親でありたい。
 それが私の唯一つの願いです
 体に気をつけて。
 寒いからあたたかかくして。
 それから・・・それから・・・きりが無いからやめとくね
 たくさんたくさんありがとう」

お母さん・・・手紙涙でにじんでボロボロだったよ。
だから紙を買ってきてくれっていってたんだね。

お母さん・・・ありがとう・・・ありがとう・・・ありがとう・・・

まだ遊んでるよ。
プレゼントしてくれたスーパーマリオランド

14 :大人の名無しさん :2006/12/05(火) 02:13:22 ID:mSy5QmK0
俺を生んでくれた母親は俺が2歳の頃に死んだ。

後の親父の話では元々、体が丈夫な人じゃなかったらしい。
俺が6歳の頃に親父が再婚して義母がやってきた。

ある日、親父が「今日からこの人がお前のお母さんだ」といって連れてきた。
新しい母親は俺を本当の子供のように可愛がってくれた。

家族とか血縁とかまだ分からない頃の俺にとって義母が本当の母親だった。
それから、何年か経ち俺が中学の頃、今度は親父が事故で帰らぬ人となった。

親父の葬式の席で親族が集まりこれからの俺たち家族の事で話し合うことになった。
親父の両親(俺から見て祖父母)は既に無く親戚づきあいも疎遠で葬式には親父の親族は誰も来なかった。
後から知った事だが親父はガキの頃に両親を亡くし親戚中をたらい回しにされ。
おまけにひどい扱われようだったらしい。
そんな事もあり自分が大人になって働き出してからは一切、縁を切っていたらしい。
まあ、そんな状況もあり今後の俺たち親子の事を生母、義母側双方で話をする事になった。

元々義母の両親は義母と親父との結婚に反対していた。
まぁ親としては娘の結婚相手にコブ付きだとやっかむの当然かもしれない。
また生みの母の両親は、まだ若い義母の事を考えて俺を引きと取ると言い出した。

15 :大人の名無しさん :2006/12/05(火) 02:16:04 ID:mSy5QmK0
双方の親の利害が一致して俺は生母の家に引き取られると決まりかけた時。
それまで双方の話を聞くだけだった義母が口を開いた。

「この子は私の子です。例え血が繋がって無くても私の子供です!」
「お願いですから、この子は私に任せてください。」

物腰の柔らかい義母が珍しく語気を荒げていた。
出会ってからはじめて見たそんな義母の姿に俺は驚きを覚えた。
最初は難癖を付けていた双方の両親も最後には義母に折れる形となり。
俺は義母と二人で生活することになった。
稼ぎ頭の親父が死んで義母は必死で働いた。
受験で大変な時期の俺を育てる為に必死で働いてくれた。

高校3年の時、俺は家の事情もあり進路は就職すると決めていた。
しかし、その話を聞いた義母は

「大学に行きなさい。」と言った。
「お金は母さんが何とかするからあんたは大学に行きなさい。」

なんで、実の息子でも無いのにそんなに俺に一生懸命なんだろう?
俺は半ば呆れながらそんな義母の言葉が嬉しくて思わず泣いてしまった。

そんな義母の言葉に背を押され少し遅れて受験勉強。
家の事情を考えると浪人は出来ないし、そんな事で義母を落胆させたくなかった。
元々、勉強は出来るほうじゃないので入れた大学も大した大学じゃなかったが
それでも合格と聞いた義母の涙混じりの笑顔は今でも忘れられない。

16 :大人の名無しさん :2006/12/05(火) 02:17:12 ID:mSy5QmK0
大学に入ったが俺は生活費分ぐらい自分で何とかしようと決めていた。
高校の時もそうだがアルバイト三昧の日々で良く留年しなかったものだと今でも不思議に思う。

大学も何とか無事に四年で卒業が出来、就職も決まり俺は晴れて社会人になった。
最初の初任給で義母にプレゼントを買った。
さすがに俺のプレゼント(たいしたもんじゃないけど)には参ったのか
ありがとう、ありがとうと言いながら泣く姿に俺も思わず貰い泣き。
ほんと、感謝しなきゃならないのは俺の方です。

それからは二人でつつがなく暮らしていたが、俺も30の手前で結婚したい相手が出来た。
最初は俺の結婚を義母がどう思うかと思っていたが大喜びで歓迎してくれた。

「あんたもこれで一人前だね」
と言われて照れくさいやら恥ずかしいやら。最初は一緒に暮らそうと言ったが
「お嫁さんに悪いから母さんはここで暮らすよ」と断られる。

いやいや、かみさんも賛成してくれてるんだけど...。
何度か話はするもののの結局、離れて暮らすことに。

でも、結婚して一年経って義母が倒れた。
幸い大事に至らなかったが、今後、同じ事が有ってもいけないと思い。
断っている所を半ば強引に同居することに。
その間、孫の顔も見せることが出来たしかみさんとも上手くやってるしで本当に幸せそうだった。

でも先月、その義母が他界。
くも膜下出血であっけなく死んでしまった。

通夜の席でかみさんが義母の話をしてくれた。
正直、この年になるまで義母のそれまでの人生を聞いたことが無かった。
かみさんは義母から色々、聞いていたらしい。

17 :大人の名無しさん :2006/12/05(火) 02:18:08 ID:mSy5QmK0
義母は親父と結婚する前に子供が生めない体だったらしい。

最初はそんな事もあり結婚を断っていたそうだが、親父はそんな事情を承知で

「俺たちには子供がいるじゃないか、俺の息子の母親になってくれないか?」
の言葉に義母は涙ながらに承諾

親父も人前も憚らず泣いていたそうで。義母曰く
「あんなみっともないプロポーズは無かったけど嬉しかった」との事

その話を聞いて俺はやっと理解できた。

そして言葉にならなずに涙だけが溢れて仕方が無かった。
今までかなり泣いたけど息が苦しくなるほど泣いたのは初めてだった。
ぶっきらぼうな親父の優しさもそうだが親父のプロポーズを最後まで純粋に受け入れた義母に
言葉に出来ない思いがこみ上げてきた。

かみさんもそれ聞いた時は涙が止まらなかったそうで俺に話しながらまた号泣。
子供たちも泣いてる俺たちを見てつられて泣き出す始末。

義母いや、母さん、血は繋がってないけど貴方は俺にとって本当の母さんです。
生みの母には悪いけど、俺にとって貴方以上の母はいません。

親父、そっちで会ったら誉めてやってください。
貴方が選んだ人はとても素晴らしい人でした。

最後に母さん、もし生まれ変われるならまた貴方の子供に生まれたい。

今度は貴方の本当の子供に生まれ変わりたいです。
突然に逝ってしまって改まって感謝することが出来なかったけど、本当にありがとう。

スポンサーリンク
感動系
スポンサーリンク
MARIをフォローする
タイトルとURLをコピーしました